食 人 (1) 東北地方の山間部の、豊かな森林に覆われた、藁葺き屋根がひっそりと点在する村に、とりわけ貧しいある農民一家が住んでいた。 両親と幼い兄妹の四人家族であったが、父親は太平洋戦争が勃発する数年前に脳溢血で倒れ、一命は取り留めたものの後遺症が残り、殆ど寝たきりの状態だった。 幼い兄妹は、父親に代わって、朝から晩まで身を粉にして畑を耕す母親の姿を見て育った。 しかし年が経つにつれて、幼い兄妹は、他家でもたった一人で農作業をする女の姿が増え始めたことに気付き、また農耕の使役が牛から馬に変わっていくのを、その理由もわからずただ不思議な気持ちで眺めていた。 「戦争が始まったんだ」 とある日母親は言った。 兄の士郎は、直情径行だった父親とは違い、口数の少ない、誠実で真面目な青年であった。 家から歩いて五キロもある国民学校を卒業すると、体が弱り始めていた母親を休ませて家業に没頭した。 兄想いの、二歳違いの妹の和美は、お下げをした丸顔の、大人しい純真な少女であった。 さて、日本が太平洋戦争に突入して数年が過ぎたある日のこと。 それまで戦争とはまるで縁がなかったかのような、静かな時の流れの中で生活を営んでいたその村に、村役場名が印された御用提灯を提げ、夜の道を歩く兵事係と駐在所の巡査の姿があった。 二人は、山間部をゆったりと蛇行しながら流れる支流に架かる橋から、最も近い場所に家を構えていたある農家を訪ね、赤紙の召集令状を渡した。その令状を受け取った若者は雄三といって、士郎の同級生だった。 その後、兵事係と巡査は、もう一通の令状を届けに、士郎の家を訪ねた。 「おめでとうございます。召集令状をお届けに参りました」 受け取ったのは母親だった。士郎の母親は一瞬無言になったが、「大変名誉なことです・・・ありがどさま・・・」 と震える声音で礼を述べ、それを受け取った。しかしその夜、両親は咽び泣いた。 士郎と雄三は既に徴兵検査を受け、いつ来るかわからない召集を覚悟していた時期であった。 士郎は嘆き悲しむ両親に、むしろ誇らしいことだと語ったが、その反面、重くのしかかる現実が待ち受けていることも感じ取っていた。 親友の雄三は、表向きは入隊したい気持ちもあるが、行かずに済むのなら行きたくないと士郎に語り、出征数日前に二人は隠れて泣き明かしたが、お互いが涙を見せ合ったのは、それが最初で最後であった。 それから十日後に、二人は満州へ向けて出征した。 国防服に戦闘帽の村長に付き添われ、村の有志たちが神社で武運長久の祈願をした後、村民たちは日の丸国旗を振り、涙を浮かべながら、天皇陛下万歳と声を上げ、国のために忠誠を尽くさんとする健気な若者二人を総出で歓送した。 士郎の母親は前掛けで顔を覆い、トラックの荷台に乗って数十キロも離れた駅へ向かおうとするたすきを掛けた息子の姿を、まともに見ることさえ出来なかった。 寝たきりの父親は、骨と皮だけのような痩せ細った体を、村民たちに支えられながら、消え入りそうなか細い声で、息子の名を叫んだが、その弱々しい声は誰も聞き取ることが出来なかった。 最後に士郎と抱き合ったのは妹の和美であった。和美は千人針を士郎に渡した。 「お兄様、生きて帰って来て下さい」 和美は泣いた。 「心配するな。父さんと母さんを頼んだぞ」 士郎は決然と言い放った。 その日は雲一つない澄み渡った晴天だった。 士郎と雄三は、その青空のように、晴れ晴れとした笑顔を満面に称えながら、遠く彼方へと村が見えなくまるまで、必死に手を振り続けた。 村民たちもまた、村のはずれの田んぼ道に並んで、トラックが見えなくなるまで、小旗を振り続けたが、やがてそれが見えなくなると、あちこちからすすり泣く声が聞こえた。 それから更に月日が流れた。 ある冬の朝、和美は布団の中で父親が全く息をしていないことに気付いた。 母親は、苦しまずに死んでいったことは、仏様のせめてものご慈悲ですと語った。 士郎の消息は、それまで数週間毎に郵送されてくる手紙によって知らされていた。 しかし、父親が死ぬ直前に届いた、「まだ満州で無事です」と書き綴られた手紙が、父親にとっての、そして家族にとっての最後の知らせとなった。 士郎からの消息は一切途絶えてしまった。 母親も妹の和美も、何かよくないことが起こったのではないかと、薄々感じ始めて不安になっていた。 そうして更に年月が過ぎて、戦争も終結を迎え、雄三だけが帰還した。 「お渡ししたいものがあります」 と雄三は士郎の母親に言った。それはマッチ箱ほどの、小さな木箱だった。 そこに細かい爪がいくつも入っていた。その瞬間、母親は初めて息子の死を予感した。 「戦況が激しくなる前日、士郎君が爪を切っておりました。そして僕に『もしものことがあったなら、これを渡してくれ』と言ったのです。僕も同じように爪を切り、士郎君に渡しました。その後、僕は傷を負って野戦病院にいましたが、士郎君はソ連と満州の国境で捕えられ、シベリアの収容所に送られました。そして帰国する直前、シベリアから出獄した上等兵から、士郎君が獄死したと告げられました」 その直後、母親は倒れた。 和美の心労の激しさも相当なものだったが、身を削るような思いで母親の看病に努めた。 が、その甲斐もなく、それから一週間後に、母親はこの世を去った。 士郎の亡骸は遂に里帰りすることはなかったが、それ故に和美は士郎の死を認めなかった。 生死を立証する証拠さえなく、戦死とみなされた兵士たちが数多くいることは聞いていたが、和美はそれでも、士郎がまだ満州で生きているのではないかと、僅かな希望を抱いていた。 しかしそれも数年の間だけで、更に月日が経つと、その希望は薄らいでいった。 終戦から五年後、二十五歳を過ぎた和美は、生まれ育った家を後にして、東京へ行く決心をした。 新橋に住む、彼女の担任だった梶村という教師を頼りに、仕事に就くことにしたのだった。 かつて、四人家族の和やかな会話が聞こえていた、みすぼらしい藁葺き屋根の家は、これからは迎え入れる人もなく、ただ朽ち果てるのを待つだけとなった。 和美は、東京へ向かう列車の中で無性に寂しくなり、眠ることも出来ず、士郎の爪が入った小さな木箱を鞄から取り出して、それをそっと両手で包み込み、楽しかった日々を回想した。 やがて和美は東京に到着した。 そこはまるで敗戦国ではないようであった。 ラジオから伝えられた終戦間際の様相とはまるで違い、真新しい建物が目に付いて、街中は活気に満ちていた。 数年前まで戦争があったことさえ、もはや誰も覚えていないのではないかと思うほどの賑やかさだった。 新橋に住む梶村は、彼女に仕事を紹介してくれる手筈を整えてくれていた。 早速、先生の住むアパートを訪ねてみようと思いながら、日本橋界隈を歩いていた時、復員兵が一人、橋の真中で物乞いしている姿が目にとまった。彼には右脚がなかった。 松葉杖を横に置き、薄汚いぼろきれで体を覆い、頭にはひさしの付いた兵隊の帽子を目深に被っていた。 すると、上等なコートを着て、葉巻を口にくわえた紳士が歩み寄り、ほれ、と言わんばかりに、復員兵の前に置かれているお椀の中へ、硬貨を一枚投げ入れた。 和美は、国のために戦ったはずの兵士が廃人のような姿になって、裕福な人々に物乞いをする光景を目のあたりにして、その格差をまざまざと見せつけられたようであった。 和美は、思い切って声を掛けた。 兵隊は不精髭を生やし、何年も風呂に入っていないような、垢だらけの真っ黒な顔を和美に向けた。 「私の兄も戦争へ行きました。でも、生きて帰って来れませんでした。死んだのかどうかさえ、いまだにわかりません。これはほんのささやかな気持ちですが、どうぞ、受け取って下さい」 和美はお椀に、十銭玉を静かに落とした。しかし、兵士はそれを拒んだ。 「お嬢さん。あなたのような人から頂くわけには参りません。これはご自分のためにお使いなさい」 負傷兵はそれを和美に返した。 兵士はそれ以上何も語ろうとはせず、再び俯いた。 和美はしばらく迷っていたが、兵士の気持ちを尊重するために、お椀の中から硬貨を手に取った。 そしてその場を去りかけた時、兵士が声を掛けた。 「余計なこととは存じますが・・・」 と兵士は言った。 和美は振り返った。 「お兄様のお名前は、何というのですか・・・?」 「佐伯士郎といいます」 和美は兄の名を告げた。 すると、兵士はそれとわからぬ程度に、驚きともとれる声を微かに洩らした。 和美はそれを聞き逃さなかった。 「どうかなさいましたか?」 兵士は俯いたままは、しばらく間を置いて、首を小さく横に振って否定したが、和美は彼の態度に、何かひっかかるものを感じた。 話していいものかどうかと迷っている様が、一瞬見て取れたような気がしたからである。 そのしこりは、しばらく二人の間を流れた沈黙の中で、更にみるみる増大して、和美を突き動かす結果となった。 「何かご存知なのですか・・・?おっしゃっていただけませんか?」 その時、また通行人が一人、お椀に金を投げ入れた。兵士は、お椀の中でカランと音を立てて、小さく跳ね上がった硬貨を見つめながら、ぽつりと呟いた。 「・・・私は、第三十一軍第四〇師団に所属していました」 と言った。 「四〇師団には私のように負傷者も、もちろん戦死者もいましたが・・・私が知る限り、士郎君は生存していました・・・あの士郎君の旧友だった兵隊・・・名前は思い出せませんが、額にホクロのあったその兵隊と一緒に、帰郷されたはずです。・・・あ、そうです、思い出しました・・・野本雄三という名の兵隊です」 和美は愕然とした。 そして、今度は和美が、雄三から聞かされていた、それまでの全ての経緯を、兵士に話して聞かせた。 「それは、事実ではありません。・・・私は、二人が船に乗って日本に帰郷するのをこの目で見たのですから」 和美は更に、彼からもっと話を聞き出したいと思った。 しかし、兵士はそれ以上、何も語ろうとはしなかった。 精神的に極限まで追い詰められ深手を負った傷跡は、肉体的損傷の比ではないのかもしれない、その苦悶が彼の口を閉ざしてしまっているに違いないと和美は思った。 和美は兵士の名を聞いた。彼はしばらくの間は、ここにいるつもりだと言った。 和美はとりあえず彼に別れを告げ、早急に雄三に会うべきだと決心した。が、わけがわからなかった。 そこで、夜も遅い時刻ではあったが、新橋まで歩き、梶村のアパートを探し出して、事の成り行きを伝えた。 「それでは一緒に東京駅まで行きましょう。仕事のことは私に任せておきなさい」 和美は梶村と共に東京駅まで行き、夜行列車で故郷にとんぼ返りした。 雄三は、戦地から帰郷してからずっと、年老いた両親と一緒に畑仕事をしている。 しかしその日は朝から激しい雨が降っていた。 家の中で炬燵に入りながら父親とラジオを聴いていた時、戸口に和美が来ているとの知らせを母親から受けた。 雄三は怪訝そうな顔をした。 仕事に就くために東京へ向かったばかりの和美が、もう戻ってきたというのだから。 奥の部屋から出てきた雄三の姿を見るなり、傘をさして立ち尽くす和美はにこりともしなかった。 「和ちゃん、どうしたんだい」 「雄三さん、ちょっと来てください」 雄三は言われるがまま、傘をさして和美の後をついて行った。和美は、彼女の生家の前で立ち止まった。 そこで和美は、日本橋で遭遇した兵士の話を聞かせた。 雄三が嘘やでたらめを言ったとは信じたくはなかった。 しかし、心の奥底では、何かすっきりしないものを感じていた。 そして雄三には既に、和美の表情から、その何かを読み取っていた。 和美が全てを話し終えると、二人の間に長い沈黙が流れた。 小粒の雨が二人の傘にポツポツと音を立てている。 五分もの間、二人は全く言葉を交わさなかったが、やがてその沈黙を破ったのは雄三のほうであった。 彼は深いため息を吐くと、和美の目を真正面から見据えて切り出した。 「和ちゃん・・・僕はまず、君に謝らなければいけない」 和美はその一言でショックを受けた。それを悟られまいと両目を閉じて歯を食いしばりじっとしていた。 「全ては士郎のためだったんだ・・・彼はまだ生きている・・・でも彼に会ってはいけない」 「兄はまだ生きているんですか?」 雄三はただ頷いた。 「一体兄に何があったのですか?本当のことを言って下さい。母がどんな気持ちだったか、そしてその悲しみに打ちのめされて死んでしまったことも、雄三さんはご存知でしょう?あなたは本当のことをわたしたちに話すべきでした。ああ可哀想なお母さん!兄さんの名を口にしながら死んでいった母の苦しみなど、あなたには理解できないのでしょう!」 和美は泣き崩れた。雄三が声を掛けて宥めようとしたが、彼女をそれを拒絶した。 しゃくりあげながらも、和美は雄三の目をしかと見つめた。 「・・・説明して下さい。一体どういうことなのですか?」 雄三は何も言わなかった。 「お願いです。本当のことを話して下さい。あなたは永遠に私たちを騙すつもりだったのですか?・・・これから一緒に、母の墓前に参って下さい」 雄三は和美の手を取った。彼女はそれを振り払った。 「・・・和ちゃん・・・僕の気持ちも察してくれ。僕には話せない理由がある」 「私は妹です・・・兄が今何処で何をしているのか、私にはそれを知る権利があります。教えて下さい!」 雄三は、俯いたまま、じっと身動き一つしなかった。 しかし、意を決したように顔を上げると、一瞬口篭もってこう言った。 「・・・いいかい和ちゃん・・・しっかり落ち着いて聞くんだぞ・・・僕の話すことを・・・落ち着いて聞くんだぞ・・・」 和美は、頬に残る、いくつもの涙の痕を見せながら、小さく頷いた。 それは次の日の出来事だった。 一里離れた村の釣り人が、うつ伏せの状態で川の水面に浮かぶ死体を発見した。 死体は二十代と思しき女であったが、その日の夕刻まで、それが誰なのか判明しなかった。 その噂を聞いた雄三はもしやと思い、トラックで遠く離れた病院へ向かい、遺体と対面した。やはりそれは和美であった。 「和ちゃん!」 雄三は号泣した。そして前日、真実を話してしまった自分を悔いた。 雄三は気が触れたかのように泣き叫び、そのまま行方をくらました。 彼の両親が、裏庭にある杉の木で、息子が首を吊っているのを発見したのは、それから二時間も経たない頃だった。 和美と雄三の自殺の原因は誰にもわからなかったが、村民の間では、二人はきっと愛の契りを交し合っていたに違いない、それが何かの原因で、成就できなかったことに対する悲痛な想いが、二人にあのような最期を遂げさせたに違いあるまいと、そんな噂が囁かれ始めた。 やがて雄三の両親は、いつのまにか村中の非難の的となり、もうそこには留まっていられなくなった。 そして老いた両親は、山を三つばかり越えたところにある小さな温泉街へと引っ越して行った。 それから間もなく、梶村が、和美から何の音沙汰もないことを不審に思い、村にやって来たのだったが、その時はもう手遅れだった。 東京の日本橋の真中で、兵士はいつものように物乞いをして生活していた。 そしてその間もずっと、彼は和美のことを気に掛けていた。 あれからもう十日が経とうとしていたが、何の音沙汰もない。 そんな時、ある一人の男が彼を訪ねてきた。 それは梶村であった。 梶村は自己紹介を済ませた後、和美が自殺をしたこと、雄三もその後を追うように命を絶ったことを告げた。 そして事実は闇の中だった。 兵士はおもむろに立ち上がると、松葉杖を両脇に挟んだ。 「私はもうここを去ります。見て下さい」 と片方の杖を前方に振って見せた。それは橋を行き来する裕福な人々を指していた。 「戦争は終わりました・・・とっくの昔に。彼らはそう言っています。聞こえませんか?私にははっきり聞こえます。 その通り。もう終わったことなんです。しかし、私には全てを葬り去る決心がつきません」 負傷兵は杖をついてその場を立ち去った。 梶村は彼の座っていた場所にしばらく呆然と立ち尽くしていたが、上等なコートを着て葉巻をくわえた紳士に声を掛けられた。 「お尋ねしますが、いつもここに座っていた浮浪者は何処へ行ったんです?」 梶村はその言葉を無視した。 そして彼もまたその場から立ち去った。 戻る 2へ |