コスモス 主婦ならば一度は不倫がしてみたいと思う。こう言うと少し大袈裟かもしれない。 正しくは、私に関心を持たずにはいられない男たちが、あの手この手で集(たか)って来て、踏み出してはいけない境界線の向こう側へ、無理矢理引っ張り出そうとする、と言った方が正解かもしれない。 やめてくれって?いいえ、正直に言うと悪い気はしないけれど、それを相手に悟らせてはいけない。 そもそも、男たちが私に夢中になって見境つかなくなるのはわかる。それは私の責任でもあるから。 私には、真面目で働き者で稼ぎのいい主人がいる。 私、宮城真佐子が、主人と出会ったのはもう十五年前。 不動産会社の事務員であり常に男性社員の注目の的だったこの私を、三年先輩だった当時の係長、現在は取締役の、つまり私の夫が、競争率の激しかった争奪戦に見事勝ち抜いてモノにしたというわけ。 今や結婚して十ニ年、子供は今年で小学四年生になるけれど、主人は結婚当初から全く変わらない。 近所の金井さんの奥さんから言わせると、理想的でいいご主人ねえと褒めてくれるし、その言葉の響きはどうも好きにはなれないけれど、まあそれはそれで悪い気はしない。 これまで寄り道して家に帰って来たこともない帰巣本能丸出しの性格で、同じ歳の金井さんのご主人も羨むほど私の主人は稼ぎもいいし、それにお互い浪費家ではなく節約家だから、蓄えもあって心にもゆとりがある。 そういうわけで近頃は銀行マンが愛想笑いを見せにひょっこり真昼間にやって来ては、全く興味のない話を、のべつ幕なしに話していくけれど、本当の目的は、私の気を惹くことにあるのはわかっている。 愛妻家を気取る金井さんのご主人とは違って、私の主人は私を愛してくれているし、幸せかと聞かれれば、幸せよ、と満面に笑みを称えては、誰に対してもこう答えるはず。銀行マンの愛想笑いのような、上っ面だけの笑顔に見えるかもしれないけれど。 でも、その幸せな生活から、私を引っ張り出そうとする男たちがいる。 私は彼らに対して、全く興味がないようなフリをするけれど、それは私が人妻であって、何より主人を愛しているということを理解させたかったし、モラルを重んじる女であるということも、それとなく知らしめてあげる必要があったから。 そうじゃないと、私が彼らに興味を持っていると思われて軽んじられる。それでは面白くないし、もう言ってしまうけれど、ハラハラ出来ない。 それでも男たちが私を色眼鏡で見るのは、危険を冒してでも私をモノにしたいと思わせる何かがあるから。 それに、私の拒み方が、遠慮がち過ぎるのも問題なのだろう。でもそれは仕方のないこと。 定期的に置き薬の営業にやって来ては無駄話をする太った中年女性によくするように、本当に拒絶してしまったら、押し寄せてきた波が一気にひいてしまうように、男たちは二度と近寄って来ないかもしれない。 そう考えると惜しい気もするけれど、でもいずれ波はまた押し寄せて来て、私をさらっていこうとするに違いない。 一旦隙を見せてしまうと、男たちはみんな鼻息を荒くして、猪のように猛進してくる単純な生き物なのだ。 さっきからただ男たちと総称しているけれど、じゃあ一体誰を指すのかといえば、私の一日を振り返るだけで、それはわんさかあぶり出されてくる。 主人は毎朝七時には家を出る。子供は八時に家を出て学校へ行く。二人を送り出した後、私は決まって掃除をする。その後は、庭のお花のお手入れ。家の中にも沢山のお花が活けてあって、特に私のお気に入りはコスモスだ。 十時過ぎになると、車に乗って、スポーツジムへ汗を流しに行く。 これは私の日課で、以前は午後に行ってたけれど、この辺りは住宅街で人口の多い地域のせいか、利用者が多く、それを嫌った私は、人もまばらな午前中の早い時間に行くことにしたのだ。 このスポーツジムには、黒田という若いインストラクターがいて、このジムのロゴ入りの黒いTシャツを隆々とした筋肉でピチピチにさせた、肩幅の広い体を見せびらかしながら、ウエイトトレーニングにいそしむ私に近付いて来る。彼がまず、男たちの中の、一人目。 そして真っ白な歯を出しては、日焼けした顔に人懐っこい笑顔を露骨に浮かべながら話し掛けてくる。 私は三十六歳だけれど、彼はまだ二十三歳の青年だ。 男というものは実際、劣等感の塊のような生き物で、特に黒田のように、然して良いとも思えない外見を、これ見よがしに誇示する男に限って、プライドの鼻をへし折ってやると大人しくなるものなのだ。 私はそれを熟知している。でも、可哀相だから、へし折ってやったことなど一度もないけれど、いつだって私はその気になれば、ポキッとやっちゃうわよ、ということを、黒田にそれとなく匂わせている。 そう易々と私に手が出せないことを、彼は最近になって、ようやく理解してきたようだ。 私は毎日ランニングマシーンで十キロ走るけれど、黒田も、私の隣のマシーンにやって来て、いつの間にか走り出している。 軽快に走る私の横顔をちらちら見ながら、どうでもいいことを話題にし始める。 大抵黒田の話題は、体脂肪のこと、日焼けのこと、プロテインのこと、そして、私の容姿のこと。 「最近、すっかり引き締まりましたね」 黒田が息を弾ませながら、私のほうを何度も見ては、こう言って関心を引こうと必死だ。 私の、小さく弾む息と、彼の大袈裟にハアハア言う息が重なり合って、妙な感覚に陥ることがある。 私は、ちらっと彼に一瞥を投げかけて、相手によっては想像を膨らまさせる笑みを返し、また視線を目の前の、窓の向こうへ、そう、向かい側のビルへと移す。 そのビルはとある大企業のオフィスビルだ。私が走っている時、ちょうど向こう側のフロアから、決まって私をジロジロ見る男性社員がいる。 白いワイシャツに真っ赤なネクタイの男。彼は最近、男たちの中の一人に追加したばかり。二人目。 デスクワークをする男は大抵眼鏡を掛けているけれど、彼もご多分に漏れず、眼鏡の奥からキラリと目を輝かせては、時折私のことを見て、いらぬことを想像しているに違いない。 若いとはいえない年齢のようだし、きっとあの落ち着いた物腰からすると結婚していることも間違いないだろう。 私がこの時間に、ここで走るようになってから、きっと赤ネクタイの彼の仕事も、はかどらなくて仕方がないはず。 朝から悶々とさせてごめんなさいね、と私は心の中で嘲笑しながら、詫びたりする。 「奥さん、今度、ジムの仲間が集まって飲み会を催すことになったんですけど、ご一緒にどうですか?」 黒田が私を誘う時、決まってその声はうわずる。私は丁重に断って、ランニングマシーンから降り、そのままシャワー室へと向かって、ジムを後にするわけ。 汗を流した後は、行きつけの喫茶店に寄って、ちょっとコーヒーを飲みたくなる。これも私の日課。 ここのマスターは、私の主人の知り合いでもある。おしゃれな髭を鼻の下にたくわえた、知的でダンディな男。 でも、私が三人目の男と呼ぶのは、奥さんと仲睦まじく店を切り盛りしているマスターではなくて、そこのアルバイト店員なのだ。 私は必ずカウンターに座って、マスターと、そしてその隣に立っている奥さんと、会話をしながら一時間余りの時を過ごす。 その間、アルバイト店員は、私がいつも注文するエスプレッソを持ってきて、 「こんにちは、奥さん」 と言って、ちょっとひ弱そうな頬骨の張った顔を緩めて笑顔を作り、じっと私の目を覗き込むようにして見る。 一見目立たない男だけれど、私を見る時の、ねちっこい目つきは、自己顕示の表れで、少ない機会を何とか利用して、自分という存在を知らしめることに必死なのだということが、手に取るようにわかる。 「こんにちは、奥さん」 と言った後の彼の目は、 「さあ、奥さん。僕の顔を見て。そして、僕の名前を尋ねて下さい」 と言っている。 私は、そんな彼を牽制して、わかりやすい、幼稚な彼の策略からさっさとおさらばして、エスプレッソに口をつける。 でも、時々、アルバイト店員の、ねちっこい視線を真っ向から見据えて、その目で私は彼に、あなたに身を委ねたとしたら、あなたは私を受け入れられるだけの、キャパシティをお持ちなの?大丈夫なの?と問い質してみる。 そうすると、彼はいつも、すっかりしょげてしまって、私の目の前から姿を消す。 喫茶店を出るのがお昼過ぎ。車に乗って家に帰り食事をして、その後、午後一時から二時の間には、再び車に乗ってスーパーへ買い物に出掛ける。 「奥さん、いらっしゃい」 鮮魚コーナーに立つ檜山が四人目で、最もおしゃべりな男でもある。 タオルを鉢巻にして、その下にはいかにも快活な、屈託のない笑顔を浮かべている。 私は彼の年齢も出身地も出身校も知っている。なぜなら彼が自分の略歴を勝手に喋ってくるからで、私が、いくら興味なさそうな白けた表情で聞いていても、そんなことはおかまいなしとばかりに、機関銃のように次から次へと話題を提供してくる。 「今日は奥さん、サバが安いよ」 というお決まりのセリフを、檜山の口から聞く事は滅多になく、「今日は奥さん、いつもと変わらず綺麗だね」 がお決まりの文句となっている。 こういう、口数の多い男に対しては、出来るだけ喋らないのが得策だ。 でもこの手のタイプは、無視を決め込むと、すぐに感情をむき出しにして怒る、たちの悪い男が多いのも事実なので、私は三度目の質問に対しては、必ず答えるようにしている。 「旦那さんも幸せだろうなあ。こんな綺麗な奥さんがいて」 と言われれば、 「そうでもないですよ」 と冷ややかな口調で答える。 そうしないと、檜山は調子に乗って、また次から次へと質問してくるから、それ以上質問に答えるような手間を私にかけさせないでくれる?という響きを持たせて檜山に投げかけてやると、大人しくなるのだ。 でも、私が腑に落ちないのは、檜山が誰に対しても同じことを言っている、ということ。 スーパーを出て、一度家に戻ると、息子が学校から帰宅している。そしてその後、私が向かう先は、今では半年以上、週に三度は通い続けている英会話教室だ。 上達度を考えて、私はずっとマンツーマンレッスンを受けている。 その都度二千円払わなければいけないけれど、自分のレベルとペースで学べるからこれが一番いいのだ。 私は家族で海外旅行に出掛けることが多い。 主人からも、日常会話程度の英語力は身に付けたほうがいいと薦められていたから、通うことにした。 私の講師はケビンという、三十歳になったばかりの、ロスアンゼルス出身の金髪の男だ。五人目。 何でも、留学で来日してから殆ど日本に滞在しているらしく、かなり日本語は堪能だ。 ケビンは松尾芭蕉が好きだという。 いつも真向かいに座って、私はレッスンを受けているけれど、蝉の声が何処からともなく聞こえてきたりすると、 「閑さや岩にしみ入る蝉の声」 と、唐突に芭蕉の句を詠み上げたりする。 そうすると、「どうだい」というような得意げな顔をして、私を見る。その青い目にはつい引き込まれそうになるけれど、そう簡単にはいきませんから、と私は彼に言い聞かせるように口元を緩めて堂々と微笑み返す。 ケビンはそうやって私を驚かせようとして、外国人には珍しいほど遠まわしに、気を惹こうと躍起なのだ。 でも、いくら親日で造詣が深いからといって、それで心を射止めようなどと軽々しく考えるものではないと思い、私はかえって厳しくケビンに接するようになった。 その甲斐あってか、ケビンは一度も私を食事に誘ったりするようなことは、今のところ、一度もない。 日本の女性は、誰しも外国人の男性に関心があるなどとは思われたくないし、実際、私には興味がない。興味があっても、そんなことを、彼に思わせたくはない。それをとにかく理解させたかった。 英会話教室を終えて、家に戻るのはだいたい夕方の六時頃。 その時、度々、近所の金井さんのご主人とばったり出くわすことが多い。実は彼は六人目。 「こんばんは。今日も英会話教室へ行って来たのですか?」 金井さんはパン工場で働いている。パンを作る男たちというのは、どうして体格が揃いも揃ってふっくらして丸い顔をしているのだろうか。 金井さんは、車を車庫に入れて、運転席から出てくる私を、わざわざ待ち構えては、色々と仕掛けてくる。 「ご主人と、久しぶりに海釣りにでも行きたいですねえ」 などと、それとなく主人のスケジュールなどを聞き出してくる。 私が、最近土日はあまり外出したがらないようですから、と答えると、 「奥さんはどうです?たまには、羽根を伸ばしてみませんか?」 とくる。 男たちの関心を振り払うのに、私がどれほど余計な神経を使っていることか。 それを金井さんにわからせるのは、意外に簡単なことではない。 だから私は、 「お誘いはうれしいんですけど、私はいつも断っているんです」 と言う。「いつも」。これがどういう意味か、おわかりになって? 金井さんは、ちょっと苦々しい顔をして帰ってしまうけれど、私は、してやったり、これで今日も一日、彼らの誘惑から逃れることが出来たと、実に清々しい一日の締めくくりを迎えることになるというわけなのだ。 主人はいつも七時には帰宅する。 当たり障りのない会話をしながら食事をして、息子を寝かせて、やがて私たちも寝室でベッドを共にする。 主人はすぐに寝入ってしまうけれど、私はいつも、なかなか寝付けないで困る。 そういう時には、いつも決まって、ベッドの脇の、竹篭に活けてあるコスモスの花びらに手を触れる。 コスモスの花言葉は純潔。私はこうして、日々純潔を保っている。 どんな男が寄って来ようとも、私には主人だけなんだから。 でも、涙が止まらなくなる時がある。 純潔を保つことの、この息苦しさは何のため? 毎夜、私より早く寝てしまう主人の背中を見つめながら、今日も涙を流す。 主人も六人の男たちも、本当は私には何の関心も持っていないことを知っているから。 戻る HOME |
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