地中の魔物(2)

 

 ここまで話した後、祖父は突然咳き込んで、また私に水を持ってくるようにと言った。私は台所に行って、コップに水を入れるとそれを祖父に渡した。祖父の手は微かに震えていた。私にもそれがわかった。
幾分落ち着きを取り戻した祖父は、布団の上に体を横たえて、しわがれた声で話し始めたが、それから女とどうなったのか、その後の経緯に一切触れることなく、地下から地上に出たところで始まったので、私は思わず口を挟んでしまった。
「その後、どうなったのですか」
私は尋ねたが、祖父は、あとで自ずとわかると言っただけで、それ以上触れるようなことはしなかった。

 祖父は、信じ難い出来事に遭遇して、その日はずっと意識が朦朧としたように仕事をしていたそうだが、そんな中でも、事が露見しないように、出来る限りの、細心の注意を払っていたので、誰に気付かれることもなく、一日の作業を終えることが出来た。
 竜泉にある親戚に戻ると、家族は皆内職をしているところだった。
いつもは率先して手伝っていた祖父も、その日ばかりは無理だった。
今日は散々こき使われて、疲れているので食事もいらないと断り、あてがわれていた二階の部屋に、横になった。
爪を剥がされた右手には軍手を嵌めていた。痛みがズキンと何度も走って、何かと理由をつけて親戚に頼み、医者に見せたほうがいいかもしれないと感じていたが、余計な心配をさせてはいけないと思い、結局ずっと黙っていた。
 しかし、やがて地下鉄工事が終わるまでの間、あの背の高い怪物や、老婆、そして女が、祖父の前に現れることはなかった。
そうして工事は無事終わりを遂げ、昭和二年の十二月の年の瀬に、上野浅草間の銀座線が開通、数万人もの客が押し寄せた地下鉄上野駅は人ごみでごった返し、その行列は、朝六時には、出入り口から広小路まで続き、乗車まで一時間かかった。
三分間隔の電車は常に超満員であった。
これは、当時の新聞でも大々的に報じられた。
「我が交通上最初の試み 地下鉄道本日開通 上野から浅草まで一哩半 輝かしき帝都交通の誇り」
祖父は親戚一同を連れて上野駅まで行き、運賃十銭を人数分全て払って、電車に乗せてあげた。
車両は、車体が全て黄色に塗られていて、それが目に飛び込んできた時の、人々の興奮ぶりが忘れられないと祖父は語ったが、誰しも初めての経験だったのでそれも無理からぬことだったろう。しかし、祖父は、どこか冷めた気持ちで、暗い窓外を眺めていた、と回想した。
しかし、田原町と浅草の間を通過した時、祖父は思わず目を背けた。
三ヶ月前に味わった、あの恐ろしい体験が、胸奥に蘇って祖父を苦しめた。
上野から浅草までの二.二Kmの距離を、四分五十秒かけて走った電車から降りた祖父たちは、地下鉄が開通したことによってますます混雑を極めていた仲見世を歩き、ひと時の安息を得たが、いきなり肩を叩かれて振り返った瞬間にはもう、その一時の安堵感も吹き飛んでしまった。
あの女がそこに立っていた。
着物姿で髪は耳かくし、手には洋傘を手にしていた。
祖父はしばらく女を凝視していたが、人懐っこく微笑みかける女の、明け透けな表情からは、あの、三ヶ月前の出来事が嘘のように感じられて、もしかするとあれは、夢だったのではないかと思えてしまうほどであった。
そこに、先を歩いていた親戚が戻ってきて、見つめ合う二人を、距離を置いて眺めていた。
多くの客も、立ち止まっている二人を、避けるようにして通り過ぎて行く。
女は、親戚に軽く頭を下げると、挨拶をした。
祖父は黙ってその一部始終を眺めていた。
「いつ知り合ったんだね?どうして早く教えてくれなかったんだ」
と、伯父が言った。
その言葉は、ただ棒立ちになっていた祖父に向けられたものだったが、祖父は何も答えることが出来なかった。
女は挨拶を済ませると、祖父に軽く一礼してから、その場を去って行った。

 「それから・・・」
祖父はこう言うと、急に押し黙ってしまった。
私は敢えて急かすわけではなかったが、その先を聞きたかったので、思わず、「それから、どうしたんですか?教えてください」と催促してしまった。
祖父は一度咳をすると、薬を飲む、と言って、私に白湯を持って来させた。それを口に含んで飲み込んだ後、再び仰向けになった祖父は、ぽつりと言った。
「それから・・・何度もあの女はわしの前に現れた。なぜかわかるか?」
「いいえ。わかりません」
「何もかも手を回していたんだ。わしのことも洗いざらい調べていたに違いない。あの女は、日を追うごとに、わしの前に何度も姿を見せた。信じられんだろうが、もはや許婚同然だった。わしは、誰にも本当のことなど言えるはずもない。言ってももはや、信じてはくれまい」
祖父は深く溜息を吐くと、また咳き込んだ。私は水を汲んで来ようとしたが、祖父がそれを断った。
ところで、祖父は私にまだ、肝心なことを教えてくれていなかった。
「その女は何者だったのですか?それと、地下にいた男と老婆は一体何者で、そもそも目的は何だったのです?」
祖父は、その時初めて私の顔を見た。
「知りたいか?」
「ええ。もちろんです」
「この地の、深い所に、全く別の種族が生きていると言ったら、お前は信じられるか?そしてその種族が、この世界を侵食していると知ったら、お前は信じるか?」
私はいささか面食らった。
「いえ。信じられません」
「だが、わしはこの目で見た。わしは、地中深くまで連れて行かれたあの日、あの場所で、選別されたに違いあるまい」
「選別?」
「あの地下鉄工事で、何度も事故が遭ったことはもう話したが、それとは別に、行方知れずになった人間が何人もいたことは、もう忘れ去られてしまっている」
「どういうことなのです?」
「まだわからんか。わしは今こうして生きている。これがどういうことかわからんか?」
こう私に尋ねた後、祖父はすっかり黙り込んでしまった。
あの地中に掘られた穴の中で、あの後女とどうなったのか、祖父は自ずとわかる時がくると言ったが、恐らくこの時、再び私に、その話をしようと思っていたに違いない。
しかし実を言うと、私は、こうであったろうと、幾分想像することも出来たのである。
その想像は、やがて祖父の言葉を借りずとも、当たっていることがわかった。
それはなぜかというと、祖母と両親と、そして私の妻が自宅に帰ってきて、祖父の表情が突然険しくなったからである。
そしてやはり、それ以上、口を開くことはなかったのだった。
そう、永遠に。
祖母は私の隣に座って、じっと祖父の様子を窺っているようであった。
優しい祖母。白髪だが年齢よりもかなり若く見える祖母。
仲睦まじい理想的な夫婦のように映っていた二人。
私は、しばらく祖母の横顔を見つめていたが、視線を逸らして立ち上がり、その部屋を後にしようとした。
が、祖母に呼び止められた。
「いいかい、お前。今日聞いたことは誰にも話すんじゃないよ」
それは、今まで聞いたこともないような声質だった。
私は小さく頷いただけで返事をしなかった。
話す?誰に話すというのですか?
私はあなたの孫ではないですか。
見て下さい、この舌を。