地中の魔物(1)
私の祖父は半年前に死んだ。九十七歳の大往生だった。 明治生まれの祖父は、無骨で寡黙、昔気質な人で、威厳があった。 口達者な父とは似ても似つかなかったが、謹厳実直で腰の据わった祖父に、私は子供の頃から畏敬の念を抱いていた。 祖父は、自分のことをとにかく話したがらなかった。だから私は、例えば祖父が祖母とどういった経緯で知り合い結婚したのか、という話は一度も聞いたことがなかったし、訊いても一切答えてくれなかった。 無愛想で勿体ぶっているわけではなく、話したくない理由でもあるのではないかと思わせるような雰囲気だった。 三世帯住宅で、私はずっと祖父と暮らしていたので知っているが、祖父が最も嫌っていたのは、常軌を逸した怪談話だった。 その類の話を、誰かの口から発せられようものなら、「くだらん」と一笑に伏して、決して聞く耳を持とうとはしなかった。 ところが、亡くなる数週間前、既に死期を悟っていた、その床の中で、痩せ細った体を横たえながら、こっそり私に話して聞かせてくれたのは、祖父が最も忌み嫌っていたはずの、怪奇談であった。 「わしは信じない。誰が何と言おうと、信じるものか」 祖父は初めに、私に向かって投げやり的な口調でこう言った。 その夜は私と祖父の二人だけで、祖母も両親も、私の妻も留守だった。 私は枕元に座り、なぜ祖父が唐突にそんなことを言い出したのか、見当もつかないでいたが、その類の愚痴は何度も聞いていたので、決して珍しいことではなかった。 しかし、 「だが・・・」 と、その後に付け加えてこう切り出した時には、なぜかは判らないが、私たち二人の間に、言いようのない重苦しい空気が流れて、私は思わず口を噤んだ。 幾星霜もの尊い年月が刻み込まれた皺だらけの顔からは、いつもの威厳のこもった表情しか読み取れなかったが、その内奥では、言い知れぬ不安のような感情が錯綜しているようにも見えて、私は些か複雑な気持ちになった。 「・・・地下鉄の開通工事の時だった。あれだけは別だ。わしが唯一、恐ろしいと思ったのは、後にも先にもあの時だけだ」 祖父は空を睨んでいたが、恐らくその視界には、やや染みのある家の天井は、少しも入っていなかっただろう。 過ぎ去った遠い昔の出来事を回想するかのように、その目はもっと遠くを見据えているようだった。 「それは、いつのことですか?」 私は尋ねた。 「大正から、昭和にかけての話だよ。日本で初めての地下鉄工事に、わしも関わっていた」 私はそれを聞いて驚いた。そう、祖父は決して多くを語る人ではなかった。自分のことを話したがらない人だった。 「そうだったんですか。建設の仕事に携わっていたとは知っていましたが・・・。私は父からもそんな話を聞いたことがありませんでした」 「わしは若かった。まだ十八歳だった」 ここで祖父は二、三度咳をして、私に水を持ってきてくれと頼んだ。その声はひどくしわがれていて、苦しそうに絞り出すような声音であったので、私は心配して台所に行き、冷蔵庫からミネラルウォーターを出してコップに注ぎ、それを祖父に飲ませてあげた。 やがて布団の中で、少し落ち着きを取り戻した祖父は、再び話し始めた。私はその枕元で正座をし、じっと耳を澄ませていた。 「当時は大変なことだった。大正十四年に工事が着工したが、その二年前、工事の認可を受けた直後に関東大震災が起こった。震災の打撃は相当なものだった。そればかりか、経済不況で、東京の財政は既に逼迫していたからな。本当は地下鉄どころではなかった。しかし、何とか工事は始まった。まだわしが入社して間もなかった会社が、その工事を請け負ったんだよ」 祖父はもう一度半身を起こして、水を口にした。 痩せ細ったその体を支えてあげながら、私はこれから祖父が何を話そうとしているのか、全くわからなかったが、死期迫っていたこの時期に、敢えて話そうとした、その決意の程が言葉の裏から汲み取れて、私はどう対応したものかと困惑していたのも事実である。しかし私は、祖父の言葉ひとつひとつを、決して聞き漏らすまいと神経を研ぎ澄ませて、それをしっかり記憶に留めておこうとする努力を怠らなかった。その甲斐あって、ここでその全容を書き記すことが出来るのだ。 祖父は新潟県に生まれ、三歳の時、一家は北海道の旭川に移住した。 少年時代を北海道で過ごした祖父は、札幌の商店で丁稚奉公をしながら師範学校で学んだ後、親戚を頼って上京した。 そして、初めて就職した先が土木会社だった。 当初は、東京市内の小さな工事現場を転々としていたが、大正十四年(一九二五年)の九月二十七日に着工された地下鉄工事に、祖父も担ぎ出された。 およそ二年の歳月をかけての、上野浅草間の二.二キロの開通工事はこうして始まったわけだが、何しろ日本初の地下鉄工事である。 「わしは、まだ田舎から東京に出て来たばかりの青二才だったからな。それはそれは興奮したよ」 と祖父は私に語ってくれた。 親戚の家は竜泉寺町にあり、工事現場へ通うのにも好都合な場所である。 親戚の伯父は鳶職をしていたそうだが、奥さんや娘と一緒になって、内職で酉の市の熊手を作っていたという。 というのも、当時はまだ震災の痛手から完全に立ち直っていなかったため、生活もかなり困窮していたらしい。 そんな状況にありながら面倒を見てもらっていたので、祖父は随分肩身の狭い思いをしていたそうである。 が、当時は何処の家庭でも、家計は火の車だったようだ。それだけならまだしも、家を無くして、何年もバラック小屋に住んでいた家族もあったそうである。 特に震災の被害が酷かった地域では、明治の名残をとどめた建物が少なくなって、木造から防火建築の鉄筋コンクリートに変わってきたのを、祖父は実際にその目で見てきたので、妙に寂しい気持ちになっていたという。 大正十四年に始まった地下鉄工事は、当時日本中で話題になっていたそうである。 祖父は、そんな重大な仕事に関われることへの喜びを噛みしめながら、朝から晩まで無我夢中で仕事をした。 現場では、祖父は最も若かったため、何かとこき使われていたらしいが、そんなことも全く苦にならなかったという。 しかし、既に地下鉄が開通していた欧米のノウハウなど、日本の地盤の質が違うため全く参考にならず、工事は全てが手探り状態で、それに加え、当時の東京の地下にはもう、下水管やガス管、水道管、電線や電話線が沢山埋まっていたために、それらに細心の注意を払いながら、工事を進めていく必要があった。 そのため、祖父も何度か事故に遭遇している。 工事開始の一年後には、菊屋橋付近で陥没事故が発生して工事が中断した。 その次の年には、豪雨により、菊屋橋から上野までが大量の水で溢れてしまったそうだ。 しかし、様々な困難に直面しながらも、祖父を含めた当時の現場の技師たちは、負けじと工事を進めていったのである。 地下鉄のトンネルは、道路の上から地面を掘って、中にコンクリートや鉄骨で箱を作り、埋め戻していくという開削工法を用いた。今の地下鉄はもっと深いところを掘るので、この工法は、現代ではあまり適していないらしい。 しかし、当時は浅いところとはいっても、機械などなかったので、現場の人がつるはしやシャベルで、せっせと穴を掘って土を運んだという。 祖父もその内の一人で、特に夏場での作業は身に堪えたらしい。 地上から地下十六メートルへ、せっせと穴を掘っていくだけの単純作業が、体力的にも精神的にもどれほどしんどいことであったか、祖父は切々と語ってくれたが、上野から浅草までのトンネルが、粗方出来上がってきたのを見た頃には、そのしんどさも喜びでいっぺんに吹き飛んだという。 昭和二年の九月頃だったというが、祖父は実際に、肌寒い地下のトンネルに入って、着々と線路が敷かれていくのを目の当たりにして、初めて大仕事をやってのけたという喜びに胸躍ったらしい。 祖父は、他の若い作業員と共に、親方の後について行きながら、坑内の、屑鉄や残土の清掃をやらされていた。 そうしながら、親方の目を盗んでは、地下鉄とはどんな乗り物で、何人位乗れるのか、運賃はいくらかかるのだろうかと、仲間とそんな他愛もないことをこそこそ話しながら、暗い穴倉の中を進んでいた。 祖父の他に、二十代の作業員が二人、それに、親方が一人いた。 「あそこまで行ったら、今日は地上に上がって飯だぞ」 と親方が後ろを振り返って言った。あそことは、もう目の前まで迫っていた、最終地点の浅草のことである。 梯子を使って上がると、そこは雷門付近で、それから昼飯を食べることになるのだ。 祖父はこの時の状況を克明に憶えている。 祖父と他の二人の作業員は、数ヶ月後に、今足を踏みしめている線路の上を走ることになる地下鉄の話題に夢中で、そのことを親方に知られまいと距離を置いていた。 それを知らない親方は、どんどん若い彼らから離れていく。 しかし、もう浅草まではすぐそこである。そこまで行けばもう昼休みなので、各々好きなように終えて、地上に上がればいい。そんな和んだ雰囲気が、彼らの間に流れていた。 祖父は、ゴミを拾いながら、二人の従業員に、世話になっている親戚の家族を、働いて貯めた金で地下鉄に乗せてあげるんだと話した。 それを聞いた二人は、しきりに関心していた。 「へえ。そういやあ、お前は地方から来たんだもんな」 と一人が言った。 「はい。本当は両親を乗せてあげたいんですが、そんな余裕もありませんし」 祖父は苦笑いを浮かべてはこう言った。 「聞いたところによると、運賃は十銭はくだらんだろうって話だ」 ともう一人が言った。 「十銭ですか?それは高いですね」 その噂が嘘でなかったことを、祖父はのちに知ることになる。 三人はトンネルの先にある、未来の浅草駅に向かって歩を進めながら、和気藹々と会話をしていたのだが、祖父がふと、あることに気付いて背後を振り返った。 「どうした?」 一人が祖父に尋ねた。 「何処かに小銭を落としたみたいです」 作業ズボンの後ろポケットに、小銭を入れていたが、それがない。きっと屈んで屑拾いをしている最中に、落としてしまったに違いないと祖父は思った。 「本当か?おい、探してやろう」 と一人が言ったが、祖父は遠慮して、先に上がってて下さいと言った。 「もう昼ですから、先に飯を食べてて下さい。僕もすぐに探し出して、上がりますから」 祖父は来た道を戻りながら、背後から、あの二人が親方に、あいつ金を落としたそうです、と説明している声が聞こえてきた。 結局親方と作業員の二人は先に地上へ上がって行き、祖父は薄暗いトンネルの中を進んだ。 屈んでレールの上に目を凝らして、金が落ちていないか確かめる。 しかし、目に付くものは砂利ばかりで、それらしいものは一向に見つからない。 ひんやりとした風が、トンネルを吹き抜けて、祖父の肌を掠めていった。 誰もいない、物音一つしないそのトンネルの中で、祖父は急に悪寒を覚えた。 そして、前後を振り返って、先の見えない、暗い穴の只中に一人、取り残されたことを改めて悟って、一抹の寂しさが募り、そこで祖父は、とりあえず、金のことは一旦諦めようと思った。 そうして再び、浅草方面へと歩き出した。 寒々とした風が、トンネルの先から吹きつけてくる。 それはどことなく、梅雨の時のように、水の粒子をはらんだような、じとじとした風で、祖父は妙に落ち着かなくなり、その歩調は足早になって先を進み始めた。 それまで、祖父の足音と息遣いだけが、トンネルの中に響き渡っていた。 レールの上を、転ばないように気を使いながら、足を踏みしめながら、祖父はいつしか、辺りをきょろきょろと窺い始める。 この、妙に張り詰めた空気はなんであろうか。祖父はそう思って、自らを急かして、小走りになった。 と同時に、枕木に足を引っ掛けてしまい、前のめりになって倒れてしまった。 胸をしたたか打ったが、大したことはない。腕をついて立ち上がりかけたその時、祖父は、低い、いびきのような声が、微かに耳に入ってきたことに気付いた。 何処からだろうか。全く見当が付かない。 しかしよく耳を澄ますと、その声はいびきというよりも、何やらぶつぶつと、誰かに語りかけるような調子で、聞こえてくるのだった。 それは、遠くの方から聞こえてくる。 祖父は、注意深く辺りに目を凝らしながら、立ち上がって、しばらくその場に立ち竦んでしまった。 その声は、一旦止んだように思えた。しんと静まり返って、単なる空耳であったのだろうかと思い始めた瞬間に、また聴こえてきた。 祖父は背後を振り返った。 もしや一般の人が紛れ込んでいるのだろうか。 祖父はそう思って、そのまま浅草方面には戻らず、また来た道を戻り始めた。何処から聞こえてくるのかは判らないが、少なくともその方角から聴こえてくることだけは、間違いなさそうだったからである。 祖父は思わず声を上げた。 「誰かいるのか?」 しかし、その祖父の声だけが、空しく、暗闇のトンネルにこだましただけで、その問いに答える闖入者の声は響き渡ってこなかった。 祖父は、恐る恐る足を踏み出しては、暗いトンネルの中の、その先を凝視して、声の正体を探り出そうと思っていた。そうしながら、ふと、右側に目をやった。 その刹那、トンネルの壁の方から、一陣の冷たい風が微かに吹いてきて、祖父の頬を撫でた。そんなところから風が吹いてくるとは考え難い。一体どうしたことかと不思議に思った祖父は、ゆっくりと壁に近付いて行った。知らぬ間に、心臓の鼓動が激しくなって、それは自分の耳にも聞こえてきそうなほどに、脈打っているのがわかった。 手をかざして、コンクリートの壁に軽く触れてみるものの、風の通り道となる隙間は全く見受けられない。ところが、その壁の下に、ほんのわずかな穴が(祖父は、一円玉大程の穴だったと言っていた)口を開けていて、どうやらそこから、冷たい風は吹き抜けているらしいことがわかった。 祖父は跪いて、両の手のひらを地面に付けて体を支え、殆ど無意識のうちに、その小さな穴の中を覗いてみようと、顔を近づけていった。 もちろん、この時は、何も見えなかった。そこで祖父が、穴の周囲の土を除けていくと、それはいとも簡単に、地中奥深くへと落ちていった。そして、更に広がった穴からその先にあるものを覗き込もうとした時、膝下の土が、前触れもなく一気に崩れ落ち、ぱっくりと口を開けたその大きな穴から、未開の地底へと、祖父は真っ逆さまに落下してしまったのだ。 そこは、殆ど真っ暗闇で何も見えなかった。一体どこが何処なのか、何のためにこんな穴が掘られていたのか、祖父は朦朧とした頭の中で考えたが、一向に答えは見出せなかった。 ふらついた体を起こしかけた時、その傍らに、得体の知れない何者かが、じっと立ちはだかっているのがわかった。ゆっくりと顔を上げたそこに、瞬きひとつしない、異様に大きな二つの赤い眼球が祖父を見下ろしていた。初めこそは暗くてよく把握できなかったが、幾分目が慣れてくると、それは人間のようでいて、それにしては背丈がありすぎ、衣服を一切身に着けていない肌は浅黒く、骨張った体は痩せ細っていた。真っ赤に血走った目は威嚇するようでもあり、その虚ろに光る眼球は極端に大きかった。 そして、たちどころに、鼻をつんざくような悪臭がした。 腐った魚を、どぶの泥水に何年も漬からせていたとしても、これほどの腐臭はしないだろうというほどの、酷い臭いだった。 祖父は、その得体の知れない男を見上げながら、尻餅をついたまま、後退りした。 すると、そいつは細い腕を伸ばしてきて、祖父の上腕部を掴んだ。そして引っ張り上げると、何処からそんな力が出せるのか、祖父を軽々と持ち上げて、頭の先から足の先までを、まるで吟味するかのように、じっくり観察し始めたのだ。 祖父は、二メートルはあろうかという、その男の背の高さよりも、更に高い位置まで持ち上げられながら、恐ろしさのあまり、まともに目を開けていることが出来なくなって、瞼を閉じ、必死に心の中で拝み続けた。 すると、その男は、祖父をその場に下ろすと、右脚を掴んで引きずり始めた。 何の抵抗も出来ずにいる祖父は、必死に心の中で拝みながら、いくらか足を振り上げるなどの抵抗を示してはみたが、全てが無駄だった。 何処をどう引きずられて行ったのか、祖父は全く思い出せないという。しばらくはレールの上をゴツゴツと体をぶつけながら進んでいたそうだが、急に右に折れて、何もない土の上を、引きずられていったというのだ。 やがて見たこともない穴倉に入って行った。工事で掘った横穴ではないことだけは確かだったが、朦朧としている意識の中では、それ以上考える余裕さえない。 その穴を、祖父は引きずられながら、どんどん進んで行く。 男は祖父の脚を握っていた手に更に力を込めると、突然、祖父を、遠くの方に放り投げた。 先の見えない穴の、更に奥へと飛ばされて、しばらく背中の痛みに堪えかねていると、男がまた近付いてきて、今度は祖父を蹴った。 その洞窟の先には、深さ五メートルほどの竪穴が掘られていて、祖父はそこに、真っ逆さまに落ちた。 下はひどくぬかるんだようになっていた。祖父は呆気にとられたまま、身動きすら出来ずに、ただ呆然と仰向けになったまま、真上を見上げていた。 あの男は、真っ赤に充血したような鋭い眼球で、辺りを見回していたが、しばらくすると、大きな唸り声を上げて、その場を去って行った。 祖父は体を起こした。そこはまるで古井戸のようだった。 何とか上に這い上がれるかもしれない。 祖父は咄嗟にそう思って、足を引っ掛けようともがいたが、凹凸が全くなく、土を剥がして手で触れてみると、それは鉄のように固かった。 祖父は一人そこに残されて、ぬかるんだ地面に座り込み、思わず涙を流した。 一体これは、何事だというのだろうか。 そして、あいつは何者なのだ。 自問自答しようとするが、それはとても考えの及ばないことであることを、祖父は嫌でも実感せずにはいられなかった。 その時、物音がした。 背後を振り返ると、そこに、重厚な鉄の扉があって、その扉が開かれるのと同時に、向こうから二人の女が姿を見せた。 二人とも裸で、容姿は人間と寸分も違わないように思われた。 しかし、その内の一人である年老いた女は背が低く、皺だらけの窪んだ瞼を開いて、祖父を見据えていたが、その目には白目がなく、底無しの真っ黒な洞穴のようだった。 もう一人は若い女だった。背は祖父と同じ位で、警戒するような眼差しで祖父を見ていたが、よく見ると、顔を除いた全身に、黒い毛が生えており、肌は所々見える程度だった。 祖父は唖然としたまま、ただ二人を見つめていた。 薄暗い、古井戸のような穴の中で、三人は一言も喋らなかった。 すると、若い女は、老婆に促されるかのように、背中を押されながら、祖父の近くまで寄って来た。 祖父は思わず体を強張らせた。 女は、突然、口を開けた。そこから舌が出てきた。 それま、みるみる伸びていき、胸元まで届いた。 そしてそのとてつもなく長い舌を、祖父の頭に絡み付けると、女は髪の毛を数十本、一気に引き抜いて、それを舌で巻き、やがて口の中に放り込むと、女はそれを食べ始めた。 すると、祖父は、女の体から、少しばかり、体毛が抜け落ちたのを見逃さなかった。 そしてまたもや長い舌を吐き出すと、今度は祖父の手首に巻きついた。 ここからは、あまりの痛さに、祖父はどのようにして、女が爪を剥ぎ取ったのか、よく憶えていないという。 祖父は目を閉じて、今目の前にしている光景を、頭から振り払おうとしていたのだが、突然指先から激しい激痛に見舞われ、叫び声を上げながら、祖父はその場にうずくまってしまった。 見ると、右手の指先にあるはずの爪が、全て剥がされていた。そこから血が滲んでいる。 女は警戒心が解けたのか、薄笑いを浮かべながら、痛みに苦悶する祖父を見下ろしていた。 そして老婆に何やら相槌を打った。 祖父は、激しい痛みに身もよじれんばかりだった。女はそれを悟ったのか、祖父の爪のない指先の辺りを摩り始めた。 祖父はこの時、女の体の毛が、かなりなくなっていることに気付いた。まるで祖父の髪の毛や爪を食して、人間に近付こうとしているかのようだった。 老婆はその光景を目にすると、静かに鉄の扉の向こうに消えて行った。 戻る 2へ |
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