情事の終わり

 

 夜の十時頃になると、加奈子が決まって苛立つのにはわけがあった。
といっても、傍目にはそれとわからない。その時間、いつも傍らにいる夫に気付かれてはいけないからだ。
座椅子に座ってテレビを見ながら食事を黙々と進める夫を目の端で捉えながら、今夜はまだ寝ない気でいるのだろうかとそわそわし始める。
夫の修司のことを、近所の婦人たちは、真面目で勤勉な方ね、と口々に褒めそやすが加奈子はうれしくない。
そんなことを涼しい顔で言っておきながら、彼女たちは面白味のない男だと見下げているに違いないのだ。
修司は、無口で、友人が少なく、これといった趣味もないし、酒も飲まない。ギャンブルもしない。
週五日は、五時きっかりに役所の仕事を終えると何処も寄らずに真っ直ぐ団地に帰ってくる。
中学生の一人息子が、大広間でゲームに熱中していると、修司は声も掛けずに、台所のテーブルを前にして腰掛け、夕刊に目を通し始める。
息子がいない日は、大広間で夕刊を読む。それも一時間かけて。
読み終えたら風呂に入り、その後、加奈子が作った料理に手をつけ始める。
テレビでは、お決まりの番組ばかりを見る。夜の十時まで、少しずつ料理に手をつけながら、テレビを見ている。
いつもは大抵、十時きっかりになると、黙って布団に入る。
これが、十五年間、ほぼ毎日続いている。
新婚当初はいくらかマシだったが、今は二人の間には、会話らしい会話が殆どない。常に、水を打ったような静けさに包まれている。
しかし、加奈子には、夫が寝静まった後に、楽しみにしていることがある。
だからこそ、夜の十時を過ぎても、寛いでいる夫の姿を見て、加奈子は徐々に苛立ちを募らせる。
「さて、寝よう」
おもむろに、修司が立ち上がった。加奈子は「おやすみなさい」と言って、食器を片付け始める。何かしてないと、変にそわそわしていけない。
修司は、そのまま隣の寝室に入って行った。夫は寝付くのが早い。しかし油断は出来ない。
加奈子は、台所で食器を洗い始めた。そして食べ残しをゴミ箱に捨て、テーブルの拭き掃除。
夫が眠りにつくまでの間は、いつもそうしている。
十時半を回った頃、台所から寝室を覗きに行った。
夫は寝息を立てている。息子もとっくに眠っているはずだ。
加奈子は、エプロンを台所の椅子に引っ掛け、洋服箪笥の中に掛けてあるコートの内ポケットから携帯電話を取り出した。
メールが二件入っている。
加奈子は携帯電話を手にトイレに入り、鍵をかけた。
そして、電話をした。
「もしもし?」
若い男の声が応対した。年は二十八。加奈子より十五歳も若い。
結婚歴と一緒だ、と加奈子はいつも思うが夫の顔など浮かんだことはない。
「ごめんさい。今日は夫がなかなか寝てくれなくて」
加奈子は手で口を塞ぎながら小声で話す。
そんな時、男はいつも加奈子の胸中を察してくれた。何よりもそれがうれしい。
「気にすることはないよ。時間に融通が利かないんだから、仕方ないさ」
「ありがとう。早く声が聞きたかった」
「俺もだよ。十時過ぎに、メールを二通も送っちゃって悪かったね」
「いいの。ねえ、今度はいつ会える?」
時間の許す限り、とりとめのない話でもいいから、ずっと電話していたいと思う。
そして、いつも早々と本題を切り出してしまうことに、加奈子は不安も感じている。
しかし、この年にもなって、その上家庭を持つ身でありながら、若い男を相手に駆け引きなどするものじゃない、と自分に言い聞かせる。そもそも彼を求めた理由は何だったか。
そう、この惰性に流されているだけの生活から一時脱け出して、何もかも忘れさせて欲しいため。
だから、窮屈な恋愛など求めてはいない。
自由奔放な恋愛を若い彼に求め、従順に接してくれる彼を愛し、そんな彼を素直に受け入れたい、と加奈子は強く願っている。
そしてその願いは、半年以上も続いた関係の中で、彼と会うたびに叶えられていることを知り、無上の喜びに酔い痴れる。
「明日会おう。俺は明日がいいな」
もしくは、すぐにでも会いたい、と彼は言ってくれる。
「明日は私も大丈夫よ。じゃあ、六時でいいのね?」
「うん。六時に、新宿で会おう。いつもの場所で」
「わかったわ。待ってる」
「愛してるよ、加奈子」
この言葉を口にする時だけ、彼は年上ではないかと感じてしまう。
「私もよ、浩」
加奈子は電話を終えると、トイレの水を流した。トイレットペーパーをくるくる回して適当な長さに切り、それを便器の中へ。
そこまですることはないといつも思うが、そうしないとなぜか落ち着かない。
心の何処かにしこりとなっている罪悪感を、水で流してしまえるものならば流してしまいたいと、勢いよく溢れ出る水を見つめながら、いつも思う。
ゆっくりドアを開けてトイレを出ると、洋服箪笥に掛けてあるコートの内ポケットに、加奈子と浩だけその番号を知っている、赤い携帯電話を忍ばせた。

 次の日。午後六時十五分前、加奈子は新宿駅の新南口を出て、階段を降りていた。そして左折すると、スターバックス・コーヒーに入った。
なるべく奥のテーブル席を取り、コートを脱いで座ると、バッグから携帯電話を取り出した。
するとちょうど、今駅に着いたよ、というメールが届いた。
加奈子は携帯電話をバッグに仕舞って、ホット・コーヒーを飲む。つい辺りに目を配ってしまうのは悪い癖だ。
知った顔などいない。いたとしても、私のような、何処にでもいそうな、何の特徴もない平凡な顔など、目立たないし気付かれもしない。とにかく、いつもそう思うようにしている。
そこへ、スーツ姿の浩がやって来た。
がっちりとした体格で、背は一八〇センチ。夫より十センチ以上も高い。
快活な笑顔にスポーツマンらしい身のこなし。加奈子が羨望する若さの結晶そのものだ。
浩を前にすると、加奈子も思わず若返る。
それと同時に、二度と取り戻せない過去と、これから過ぎ去っていくはずの
未来の空虚さを思い、逃げ出したくもなる。
夫とは違い、浩とはいつも会話が弾んだ。
浩は、上場企業でもある食品メーカーの営業マンだ。
彼は、加奈子が働いていたスーパーに、月に何度もやって来た。
ある時は納品や品出しの手伝いに。ある時は新商品の営業に来ることもあった。
そうして二人は知り合い、打ち解けていき、やがては一緒に食事をする仲にまで発展した。
その頃になると、先が見えてきた。もう後戻りはしない。このまま行けるところまでいきたいと加奈子は思った。
そして、実際そうなった。一直線に定まっていたレールは、ある時脇道へ逸れ始めた。しかしいずれまた、レールの上を走ることになる。それでも良かった。半年間、彼女は脇道に逸れることだけを生甲斐にしてきたのだ。
それが延々と続く、本線になって欲しいと密かに願いつつ。
二人はスターバックス・コーヒーを出ると、ロシア料理店で食事を摂り、その後ホテルに入った。
そこで二人は愛し合った。
しかし、夢は醒めるものだ。
現実に立ち返らなければいけない。間もなく、もうすぐそこまできている。
それを知っているからこそ、ホテルを後にした加奈子は息苦しくなる。
駅の近くの有料駐車場に停めてあった浩の車に乗り、団地の裏まで送ってもらう。
「じゃあ、また会おう。今夜は楽しかったよ」
助手席で浩の唇を受け、抱擁する時間が永遠でないことを怨みつつ、加奈子はそっと車を出て、走り去って行く希望に向かって小さく手を振った。
しかし、それは露のようにはかなく消え失せる。
俯き加減で団地に向かい、家に帰る。午後十一時。
鍵を開け中に入ると、夫はもう熟睡していた。息子もいびきをかいている。
今朝、加奈子は夫に言った。
今夜は同窓会。
でも本当は、十数年前に一度、顔を出したきり、参加していない同窓会。今はもう招待状さえこなくなった同窓会。
加奈子は心の中で、深い溜息を吐いた。

 その週の土曜日にも、加奈子は浩と会った。
新宿の町の喧騒は、彼女にまとわり付く生活の匂いを消し去ってくれるようで、居心地がいい。
大勢の無名の雑踏に紛れて、加奈子であることを忘れさせてくれる。私は大勢の中の一人。浩と私だけ。
その雑踏から離れ、暗い路地を入る。
こうしてホテルへ向かっている時、浩は後ろを振り返った。
「誰かついてきてないか?」
加奈子も背後に目を配るが、そんな気配は感じられなかった。
何かを酒に求めても所詮得られるもののなかった数人の酔っ払いが、愚痴をこぼしながら路地の隅っこをふらふらとよろめきながら歩いているだけ。
「気のせいじゃないかしら」
「そうかな。どうも嫌な予感がする」
浩は加奈子の手を握り、少し歩みを急かした。
ホテルに入る直前、加奈子は気になって、もう一度背後を振り返る。
何か、水のようなものが、顔に向かって飛んできたのがわかったが、それが何なのか、考える間もないほど、加奈子は突然激痛に見舞われた。
「・・・恭子・・・」
と浩は言った。
硫酸の入った瓶が、浩の足元に転がった。
嫉妬の炎を燃やし、身をよじらせんばかりに猛り狂う女の姿がそこにあった。
女は浩の頬をあらん限りの力で殴った。
その手を押さえつけた浩は、必死に涙声で弁解する男に成り下がった。
加奈子の右頬は、焼けただれたようになった。
朦朧とする意識の中で、バッグの中をまさぐりハンカチを取り出し、それを頬にあてがった。
恭子という名の若い女にすがりつき、浩は何かを叫んでいる。
違うんだ、こいつは何でもないんだ。
その言葉だけは、何とか聞き取れた。 
加奈子は顔を抑えてその場から逃げ出した。
誰も追って来ない。
「愛してるよ、加奈子」
と囁いてくれた浩の声は、もう遙か彼方、いくら耳をそばだてても聞こえない。
きっと夢だったんだ。こんな私に、誰がそんな言葉を言ってくれるというの。
心から。
加奈子はタクシーに乗った。痛い。焼けるように痛い。
「お客さん、どうしました?大丈夫ですか?」
年配の運転手がバックミラーを覗く。そこにいるのは右頬をハンカチで押さえ、苦痛に顔を歪める中年の女。
加奈子はその問いかけに答えなかった。
タクシーの窓から目に飛び込んでくる光景は、加奈子を過去へと彷徨わせた。
「愛してるよ、加奈子」
顔の痛みなど物の数ではない。心の傷は癒せない。でも、この傷は誰にも見せられない。
タクシーを降り、団地の階段を駆け上がる加奈子は、ふと思い止まった。一瞬、歩みを止めたかに思えたその歩調は、ゆっくりと、家に向かい始める。
ハンカチを離し、指先で傷口に触れてみた。
酷い。醜い。
まるで、大きな、でこぼこしたウロコを触っているかのようだ。
痛い。熱い。・・・こんな顔見られたくない。見られたてしまったら私は・・・。
加奈子は再びハンカチで頬を押さえると、ドアを開けた。
午後十時。ちょうど、いつも私が苛々する時間。でも、もうそんなことで苛立つことは二度とない。
本当は、そんな自分に、一番腹が立つ。
加奈子は、家に入った。
息子は、今夜は友達の家に泊まってくると言っていた。
しかし、夫は大広間でテレビを見ている。
「妹さんは元気だった?」
夫がこう尋ねてくることもない。その方が、嘘をつく必要もないから都合がいい。
加奈子は台所に立った。
そしてコンロの上に油を注ぎ、火を点け、そこに顔を突っ込んだ。
夫は、妻の浮気については、何もかも知っていた。しかし、どうすることもできない。
妻を男から突き放してみたところで、さあ、その後、私に何が期待できよう?
そう、あなたに何が出来るというの?妻はそう言っている。
夫の修司は、それでも、今夜ぐらいは、妻を気持ちよく迎え入れてあげようと思った。
今夜は早かったんだね。何を作っているんだ?大丈夫だよ、私はもう食事を済ませたから・・・。
ゴツン、と音がした。
首から上、炎に包まれた妻が、台所で倒れた音だった。