椿の花びら 羽田空港から飛び立った一二三便の窓外には青空が広がっている。シートに体を沈めながら、澄み渡る空に白い翼が浮遊しているのを眺めている平野隆文は、その景観とは裏腹の、物憂げな表情を浮かべて、時折機内の天井に目を向ける。 高知空港までの一時間十五分はあっという間に過ぎ去ったが、初めて訪れる土地に足を踏み出すには、もう少し時間が欲しかった。隆文は、乗客が全員降りるのを待ちながら、機内の静寂の中で唯一人、目を瞑って、掻き乱されようとしている心の平安を、静かに待った。 「お加減でも悪いのですか?」 目を開けると、そこにスチュワーデスが立っていた。 ここに至るまでの、長きに渡る道のりを、彼女は知る由もない。それでもその言葉は心に染み入った。 「いえ、大丈夫です。もう、降りられますから」 隆文は立ち上がると、礼を言って機内を後にした。 空港で数少ない荷物を受け取ると、出来るだけ時間をかけるために、タクシーには乗らず、バスに乗車して高知駅に向かった。 やがて四十分後に到着すると、人もまばらなホームに、特急あしずり号がちょうど入ってきたところだった。 隆文はそれに乗り込むと、バッグを荷台に置いて窓際の席に座った。 車内は旅人らしい乗客が二、三組、見受けられる程度で静かなものだった。 一路西へ向かう列車は、ゆっくりと動き出し、隆文は車窓から、知らない土地の、移り行く景色を目で追った。 佐川駅を停車し、やがて須崎に近付いてくると、大きな入道雲のある、明るい空の下に、深い色をたたえた海が見えてきた。 黒潮香る土佐湾の海は太陽を背負って白く霞み、列車の機械音に紛れて掻き消えたはずの穏やかな波の音色は、耳元で奏でられているかのように、隆文には聞こえてきた。 須崎駅を過ぎ、窪川から土佐佐賀、そして土佐入野へ、大自然の只中を走る窓外には、山の風景と海沿いの景色が広がる。 やがてトンネルが増えてきた。 トンネルとトンネルの間から、時折海が見えて、隆文を幾分和ませたが、それもほんの僅かなことで、黒いカーテンを下ろしたような、何も見えない、暗いトンネルを、列車は通って行く。抜け出たと思うと、またトンネルが現れて、その中を走り続けた。 暗いトンネルを、何度も、何度も。 「父ちゃん!やめて!」 母が叫んだ。 父は容赦なく母を殴り続ける。 朝から晩まで、むせるような酒の臭いが充満していた六畳間のアパートで、赤らんだ厳つい顔に、血管を浮き上がらせた父は、母の首根っこを太い腕で掴んで捻じ伏せて、母の小さな顔に拳を振り下ろすのを、小さな隆文は、部屋の端に膝を抱えて座って丸くなり、呆然と眺めていた。 父は呂律の回らない口調で、わけのわからない暴言を吐きながら、今度は小さな母の体を何度も蹴り上げると、部屋中に鈍い音を響き渡って、隆文は耳を塞いだ。 苦悶する母の顔は痣だらけで、這いつくばりながら逃げようとするその指先は畳みを引っ掻いていた。 父はもう一度母を蹴ると、その場に座り込んで、一升瓶をラッパ飲みし始めたが、その中身がないとわかるや、隆文に買いに行けと命じた。 父は母の財布から小銭を抜き取って放り投げると、隆文はそれを拾い集めて、しばらく母を眺めていた。 「・・・母ちゃんも一緒に行こうよ・・・」 母は壁に寄り掛かって、息を整えている。 その壁の向こうでは、隣室の気弱な青年が、怯えながら、事の成り行きを耳を澄ましてはじっと見守っているに違いなかった。 「・・・母ちゃんも一緒に行こうよ・・・」 隆文は、恐る恐る母に近付いて、肩を叩いた。母は、ありったけの優しい笑顔を作って、それに応えてくれた。 「ちょっと待っててね」 母はこう言うと、父を見た。隆文も大の字になっている父に視線を移す。 父はいつの間にか眠り込んでいた。そしてその後、母と視線の合った隆文は、その瞳の奥に、一瞬、今まで見たこともないような、決然とした強い意志が宿っているのを、子供ながらに感じ取った。 思えばあの輝きは、母が初めて、ここから逃げ出そうと決意した、まさにその瞬間に見せたものだったに違いない。 隆文は、この時こう思った。 これで母ちゃんと二人だけで暮らせる。 何処か知らない場所で、母ちゃんと二人だけで暮らしていける。 母は腰の辺りを押さえながら、壁にもたれ掛かるようにして立ち上がると、隆文はその体を支えようと、咄嗟に手を伸ばした。 その小さな息子の頭を、母は撫でた。 「心配しなくてもいいよ。じゃあ、一緒に行こうね・・・」 父の傍らにあった財布を拾い、タンスの引き出しから通帳と印鑑を持ち出した母は、隆文の手を取って、アパートを出た。 酒屋のある方角とは別の道を、母子は歩いた。母は片脚を引きずっていた。 隆文は、これから何処へ行くのだろうか、何処で一緒に暮らすのだろうか、と考えていた。 でも、もう父の顔を見なくて済む。そこが何処であってもいい。そう思っていた。 母子は国道に出ると、タクシーを拾った。 生まれて初めてタクシーに乗った隆文は、そのことを話そうとして母を見た。すると、なぜか母は涙を流していた。 隆文の小さな手を握り締め、嗚咽を噛み殺し、ただ溢れんばかりの大粒の涙を流し続けていた。 隆文には、その涙の意味がわからなかった。 乗ったことも、降りたこともない駅の前でタクシーを降りると、母は銀行に立ち寄った。 その後、二人は駅の構内に入った。 母の温かい手に引っ張られながら、隆文は、少しばかり気持ちを昂揚させていた。 まるで、これから旅行にでも行くような気分だった。 思えばあの時、僕はまだ七歳だった・・・。 母は切符を二枚、券売機で購入すると、改札を入ってホームに向かった。 あまり人目に付かない、階段の陰に息子を引き入れて、跪くなり母は言った。 「・・・ここにいて。母ちゃんはこれから電車に乗って、一緒に住む所を探してくるからね」 跪いて目線を合わせ、息子の両肩に柔らかい手を置いて、落ち着いた口調で話す母の言葉には、いつもとは違う響きがあった。 その違和感が何であったのか、幼い隆文には全くわからなかった。 「何処まで行くの?ここは何処なの?」 隆文は辺りを見回しながらこう尋ねたが、それは急に込み上げてきた、言いようのない不安感に突き動かされたためであったか。 母は、もう一度しっかりと目線を合わせるために、隆文の顔を真正面に向き直させた。 そこには、何かを思いつめたような母の顔があった。 しばらく無言のまま、母子は見つめ合った。 すると、母は、財布から一万円札を五枚取り出すと、それを隆文に握らせた。 「いいかい。これをしっかり持ってるんだよ。父ちゃんのところには絶対戻っちゃ駄目だよ」 隆文は、くしゃくしゃになった一万円札に視線を落とした。 「母ちゃんはどうするの?何処まで行くの?いつ帰ってくるの?」 「・・・母ちゃんは何にもしてあげられなかったね・・・。お前を生んだのに・・・幸せにしてあげられなかったね」 母は、涙を堪えているようだった。 その時、電車がホームに入ってきた。 「母ちゃんはもう行くからね。・・・いいね、それはお前のお金だからね。わかったね・・・」 「僕はここで待ってればいいの?」 その言葉を聞いて、母は隆文を抱きしめた。何度も頭を撫でると、突然泣き出した。 母はその場を離れ、電車に飛び乗った。 そして、ドアが閉まった。 母はドアの向こうで、泣き崩れんばかりだった。 しかし隆文は手を振らなかった。すぐに母が戻ってくると信じていたからだ。 電車はホームから遠ざかって行った。 母の姿が見えなくなるまで、隆文はその場にじっと立っていた。 電車は完全にホームから離れ、やがて小さくなり、永遠に見えなくなった。 中村駅に着いたのは午後の二時だった。 隆文は立ち上がって荷台からバッグを降ろすと、電車を降りた。 駅前では、既に土佐清水行のバスが待っていた。 隆文が乗り込んだのと同時に発車すると、バスはしばらく四万十川に沿った道を走った。 三十年間生きてきた人生の中で、一度も訪れたことのなかった土地。東京から、最も遠く離れた、この南西端の地。 そこにたった一人でやって来た。これからは一生涯忘れることの出来ない場所となるだろう。 隆文は感慨深げに窓外の景色を眺めながら、やや落ち着きをなくし始めた気持ちを抑えるように、小さく深呼吸をした。 静かに流れる四万十川の景観が、後方に過ぎ去って行くと、バスは山間の道に入った。 そこから一時間かけて、終点の土佐清水に辿り着くとバスを降り、そこから坂道をゆっくりと歩き出した。 隆文は、バッグから、A四版の冊子を取り出した。 官報だった。 隆文は歩を進めながら、その冊子を開いて、あるページに目をやった。 それは、「公告」の中の、「行旅死亡人」を伝える箇所だった。 本籍・住所・氏名不詳、女性、年齢六十〜七十歳位、身長一五〇センチメートル、体重四十キロ位、左目尻付近に三ミリ大のほくろ、右鼻翼部二ミリ大のほくろあり、腹部へそ上に長さ十七センチの手術痕、大腿部に長さ十五センチの手術痕あり、上下義歯、白髪を黒毛に染めている、着衣は黄緑色ジャンパー、白色シャツ、黒色ズボン、遺留金品現金三一円在中の財布、安全剃刀在中のハンドバッグ、「平野」と内側にマジックで書かれたウエストポーチ等上記の者は、平成十七年一月二十一日午後三時三十分頃、土佐清水市足摺岬展望台直下から南方約二〇〇メートルの海上で渡船業者が発見。 同日午後一時から午後一寺三十分頃の間に足摺岬周辺から転落し、頭部挫滅により死亡したものと推定される。 身元不明なため火葬に付し、遺骨は当市無縁納骨堂に納骨してありますので心当たりの方は、土佐清水市福祉事務所まで申し出てください。 平成十七年二月二日 高知県 土佐清水市長 定期購読していた官報には、必ず目を通していた。 いつ頃からであったろうか。そう、あれは成人して間もない頃だった。 母を捜したい。 ただその一念だった。 その為には、母が何処かで生きていると信じて、あらゆる手段を講じた。 その一方で、過去の官報にも全て目を通していた。 もしかすると、ここに載っているかもしれない。 もしかすると、これから載るようなことがあるかもしれない。 万が一、母を引き取ってくれる人がいなかったとしたら、どうするのか。 心の片隅では、隆文の知らない人間と、知らない場所で、幸せに暮らしてくれてさえいれば、それで満足だと思っていた。 しかし、隆文には、なぜかその光景を思い浮かべることが出来なかった。 常に思い出すのは母の精一杯の作り笑い。 泣き明かすだけだった不幸な日々。働いても働いても報われなかった可哀相な母。 隆文は、父と二人だけの生活を始めた。 あの日以来、急に塞ぎ込んで憔悴してしまった父は、一気に老け込んでしまった。 飲み過ぎが祟って健康を害した。 既に働き始めていた十七歳の夏の日、仕事先から帰宅すると、布団の中で、仰向けのまま、父はひっそりと死んでいた。 あんな父でも、心の中では、ずっと母を慕い続けていたのだろうか。 父は死ぬまで、母のことを一切口にしなかった。 隆文は、十七歳から三十歳のこの日まで、一人で生き抜いてきた。職を転々としながらも、少しずつ蓄えを残しながら、幸福とはいえない中でも、母がきっと何処かで生きているに違いないとの思いを噛みしめながら、そしてそれを生甲斐としながら、こうして生きてきたのだ。 しかし、隆文はある日届いた官報を目にして、その願いが果たされなかったことを悟った。 そして、長年、抱えていた不安が現実となって、目の前に突きつけられた、その現実の惨さに、全身の力が抜け落ちていくのを感じた。 左目尻付近に三ミリ大のほくろ、右鼻翼部二ミリ大のほくろあり、腹部へそ上に長さ十七センチの手術痕、大腿部に長さ十五センチの手術痕あり・・・・「平野」と内側にマジックで書かれたウエストポーチ・・・。 「・・・腹部へそ上に長さ十七センチの手術痕、大腿部に長さ十五センチの手術痕あり・・・」 隆文はその箇所だけ、震える声で静かに読み上げた。 父がたまたま家を留守にしていたあの日。駅で、母と永遠の別れを告げた日からおよそ半年前のことだ。 何もない六畳間の真っ暗な部屋で、母は座っていた。その手には包丁が握られていた。 「隆文」 隆文は、母の傍らに腰を下ろして、包丁を見つめていた。 母は包丁を振り上げた。 隆文のつぶらな瞳には、何の恐れの色も表れていなかった。 その隆文の、無垢な表情を見て、母は思い直したように、包丁を振り下ろさなかった。 包丁は畳みの上に落ち、母は平伏して泣いた。 「・・・母ちゃんだけが死ねばいいんだよね」 母はその言葉を何度も繰り返しながら、再び包丁を手にすると、 「隆文・・・。台所に行って、タオル持ってきておくれ」 と言ったが、隆文が立ち上がって台所に行った途端、母の呻き声が聞こえてきた。 母の腹部と大腿部から流れ出ている血が、畳の上にゆっくりと広がっていった。 隆文は母のそばに駆け寄って、無我夢中で叫び続けた。 気を失った母をその場に残し、隆文は、アパートの部屋という部屋のドアを叩き続けて、大声で助けを求めた。 あの日から、父は母にいくらか優しくなったが、結局それも、長くは続かず、母への暴力は更に酷くなった。 「平野隆文と申しますが・・・」 土佐清水市役所の福祉事務所を訪れた隆文は、担当者の男と面会した。 隆文は事前に、母の写真を送っていた。 福祉事務所から来た返事は、間違いない、とのことだった。 それでも、間違いであってくれという思いで一杯だった。 しかし、その願いも空しく消えた。 そうしてやって来たこの見知らぬ土地。 母はなぜこの地を選んだのだろうか。 何の縁もゆかりもないこの南西端の地を、なぜ人生最期の終幕の舞台にしたのだろうか。 隆文は、この目で足摺岬を見てみたいと思った。 それで、今夜は宿を取ってるので、納骨堂へは明日伺う旨を、担当者に伝え、その場を後にした。 土佐清水から岬へはバスで向かった。旧道を走り、道幅の狭い道路を走り、集落の停留所を小まめに通過して行った。 中浜の集落を越え、崖に沿った細い道を走って行き、やがて足摺岬に到着した。 バスを降りると、そこは見渡す限りの紺碧の太平洋で、岬の先端部の、黒潮の白い波が打ち寄せる荒々しい岩肌の、断崖絶壁の上には、白亜の灯台が見えた。 隆文は、展望台から、その景観を眺めた。 母は、この場所から、果てしなく広がる太平洋を見ながら、何を思っていたのだろうか。 そしてこれまで、どんな人生を歩んできたのだろうか。それは隆文は知る由もなかった。 とてつもなく長い年月をかけて、風や波によって浸食した岩肌の荒々しさは、母の胸奥に迫ってきたことだろう。 隆文は、展望台から、海沿いに歩き、灯台まで行った。 そして岬を巡る遊歩道に入った。母は恐らく、この道も歩いたに違いない。隆文はそう思った。 そこは、真紅の椿の花と、その枝に覆われた、椿のトンネルであった。 散りゆくことを知らない椿は、花ごと落ちて、その生涯を終える。 二キロもの遊歩道には、椿が満開に咲き誇っている。十五万本もの椿が、隆文を迎え入れた。 本来は匂いのないはずの椿からは、なぜか母の匂いがした。 隆文はそこで思い起こした。 母は椿が大好きだった。 あの、何もなかった六畳間の部屋に、ひっそりと活けられていた椿。 母が教えてくれた、「控えめな優しさと愛」という椿の花言葉。 母はその通りの人だった。 ホームで、駅のシャッターが閉まるまで母を待ち続けたあの日の夜のことを、 何度も思い出すことがあったが、一度たりとも、隆文は母を怨んだことはなかった。 母は、最期の日、この椿のトンネルを歩きながら、何を思っていたのだろうか。 椿の遊歩道を歩くとその先に、白山洞門が見えてきた。花崗岩の岩盤が、黒潮荒波によって削られ、穴が空いている。 母は、この場所にもやって来たのだろうか。 「いやあ、いいもんですなあ。親孝行な息子さんで・・・」 隆文は背後を振り返った。 菅で編んだ丸い遍路笠に、手甲脚絆を付けた白装束のお遍路さんが、立っていた。七十前後と思しき老人であった。 「・・・と言いますと?」 隆文は尋ねた。その場には誰もいなかったのだ。 「・・・あ、いや、その、こちらの・・・あなたのお母さんに言ったんですよ」 老人は、自分の右側に手を伸ばして、そこを指し示した。 隆文は老人をまじまじと見つめた。 「ああそうですか・・・。わしにも息子がいますがね、しょっちゅう煙たがられてますよ」 老人は、杖を付きながら、隆文を通り越して、白山洞門の先を歩いて行った。 時折笑顔を見せては笑い声を上げ、遠くの方へ離れて行くお遍路さんの老人を、隆文はずっと眺めていた。 すると、おもむろに老人が振り返った。 「・・・いいですなあ。お母さんは本当に喜んでおられますよ・・・・」 そう言うと、また楽しそうに会話をしながら、老人は去って行った。 通り過ぎて行った道の上には、真紅の椿が、点々と続いていた。 戻る HOME |
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