恩讐(おんしゅう)(2)
それから一年の月日が流れた。 敬之助は、かねてより親交のあった駿河の地頭の娘と結婚した。 しかし、死んだ妻子のことが片時も頭から離れたことはなく、急に思い出されては、過ぎ去った日々を回想したり、寝床でうなされる度に妻子の名を口に出すこともあった。 新しく迎え入れられた妻女がこれに気付かないはずもなく、未練がましく慕い続ける夫の姿を見て、初めこそは同情もしていたが、すぐにそれは嫉妬となって悪心を生んだ。 そして、それと同じくして妻女の気に障ったのが明御前であった。 明御前の両親は大地震で行方知れずになったらしいが、どうやらそれも眉唾らしいと下人から聞いていた。 敬之助は、そんな明御前を養女として迎え入れ、今では娘のように可愛がっている。 ところがその娘は一切口を利こうともしない。あの大地震の遭った夜から一言も喋らなくなったそうである。 しかし、それは妻女にとって好都合だった。 妻女は、敬之助が勤めで留守にしている間は、主屋の掃除、厩に溜まった藁屑や馬糞の処理など全てをやらせ、玄米の炊き方から干し魚、煮ごぼうと大根汁などの調理方法を教えた上で、妻女が食す分だけを作らせた。 少しでも抜かりがあると、妻女は明御前を執拗に叩き足蹴にした。また、朝から夕刻まで一切食事を与えなかった。 下人たちは、敬之助と妻女には忠実であったが、身分が明らかでない上、口も利かない明御前を疎ましく思うばかりであったので、誰もそのことを告げ口する者はいなかった。 敬之助が勤めを終え帰ってきても、明御前は妻女の陰湿な虐めについて語ろうともしない。 いつもと変わらぬ明御前の姿からは、敬之助も気付くはずもなく、一方で妻女は姑息にも、敬之助の気を引こうとするが、そういう時に前妻の話などを持ち出されると、彼女は頭に血が上り、この鬱憤をどうにかして晴らしたいと思うのだった。 その矛先は常に明御前に向けられていたが、ある日妻女は、是善という名の武士のことを思い出した。 是善は幕府や諸門の警備をつかさどる鎌倉大番で、また色好みで広く知られていたが、敬之助の妻女もまた、かつて想いを寄せたことのある男でもあった。 馬に跨って執権屋敷の方へと向かって行く是善の姿を度々目撃していた妻女は、ある日下女に文を持たせ、通りかかった是善にそれとなく渡すよう指示した。 そこには、今でも是善を慕い続ける妻女の恋心を表す言葉がしたためられており、これは願ってもない申し入れとばかりに、是善はその場で下女に言伝をし、それを聞いた妻女は、敬之助の留守を狙い、戌の刻頃(午後八時)、下女を手引きに出すので、裏から局に入って来るよう是善に伝えた。 その日の夜は会うだけで何事もなく終わったが、それから四日後に再会した時、ひょうそくの灯りが燈る局の中で、二人は初めて愛し合った。 逢瀬を繰り返していくうちに、女房は次第に敬之助を疎ましく思うようになり、軽はずみな遊びのつもりだったことが、徐々に是善への情愛に変わっていった。 この妻女の想いが、それまで好色で名を馳せた、移ろい易い是善の心を突き動かした。 月日が二人の関係を更に親密にしていくと、妻女と是善は、敬之助を亡き者にする手立てはないかと考えるようになった。 そこで是善は、下賎の者だが腕は確かな男を三人雇って、敬之助が勤めを終えての夜道に急襲しようと計画を練った。 妻女と是善が局で情欲に溺れていた頃、かつて明御前が自分の住処だと言って母を求めた、あの家の持ち主であった弥六とその女房は、下総国の若宮にいた。 夫婦は大地震の直後、すぐに名越の家を捨てて遠戚を頼って下総国に行ったのだった。 問注所の役人と縁故だった遠戚の雅忠の伝手もあって、夫婦は無償で土地を借りることが出来、そこで畑を耕す仕事を始め、雅忠の家に住まわせてもらっていた。 豪農である雅忠夫婦は裕福な身分で、一人息子は京都に刀鍛冶の修行に出た後職人となり、鍛冶場は屋敷内にあった。 夜の遅い時分まで、鎚音が住まいの家屋にまで調律を奏でながら響いてくるのを弥六と雅忠は聞いていた。 そして、弥六が酒を酌み交わしながら一年前の惨事を思い出すのは毎晩のことだった。 「三年前にも名越に大火があったが・・・ここのところ天変地異が激しいのう」 「そんなことは忘れろ。ほれ、飲め飲め」 ほのかに顔を赤らめている雅忠がそう言って、弥六に酒を注いだ。 その傍らでは、小袖の上に湯巻を巻いている二人の女房が寄り添って話を聞いている。 「ここのところ、どうじゃ?」 弥六が尋ねる。 「近頃は滅多に見なくなったのう」 雅忠が答えて言うのは、弥六夫婦が移り住んでからというもの、小袖に腰まで伸びた長い髪を元結にした年の頃四十半ばと思しき女が、屋敷の門を勝手に出入りしている姿を、度々目撃していたことであった。 ふわりと突然現れては姿を消してしまう。誰も女を捕まえることが出来なかった。 気付いた時にはもういなくなっているのだった。 また不思議なことは、その女が歩いたと思われる地面が、ぬかるんだようになっていることだった。 そんなことが何度もあったが、それも、久しく置いていなかった門番を立たせ出入りを厳しくするまでの話で、それ以降はぱったりと見なくなった。 「あれは、一体何だったのじゃ。もうついぞ見なくなったわい」 「いや、弥六。あれはきっと狐の仕業じゃ。まだこの屋敷の何処かに住み付いておるかもしれんぞ」 こう言うと四人は声を上げて笑った。 その時、鍛冶装束を着た雅忠の息子が、白鞘の刀剣を手に、ささやかに賑わう酒宴の場に入ってきた。 「これから刀を届けに、鎌倉へ行って参ります」 「こんな時分に?」 母親が驚いたような声を上げた。 「そういう日もあろうよ。夜道じゃ、気をつけて行け」 凛々しい精悍な顔つきの息子は、雅忠が酒の酔いに心地良く返事したのを聞いて表に出ると、馬に跨り、行灯を手にした下男を随えて屋敷を出て行った。 彼は大変腕の良い、そして大変若い刀鍛冶だった。彼の城太郎という名は、鎌倉の役人の間でも広く見聞され始めていて、父雅忠と縁故である問注所の役人から刀を鍛えて欲しいとの所望に見事に応え、その腕の確かさを知らしめたのがきっかけであった。 城太郎はその夜、鎌倉に入ると、若宮大路から西の今大路を辿りそこを北上した。 夜の帳が覆い隠している館や民家が、音もなくひっそりと静まり返っている亥の刻(午後十時)である。 城太郎は、目指していた館に到着すると、馬を降り、白鞘の刀剣を手にして、刀を献上しに参ったと門番に告げた。 しばらくすると城太郎は屋敷内に招き入れられ、下男をその場に待たせて門をくぐり、主屋に通されたが、是善はいなかった。 「今宵は遅くなるので、ここで帰りを待てとのことでございました」 とは下女の言葉だった。 城太郎は、刀を前に目を瞑ってその場に鎮座し、是善がやって来るのを待った。 と、いくらも経たない内に、何やら表が騒々しくなってきたのに気付いた。 城太郎は身動きひとつせず、耳をそばだてるだけだ。そうしている間にも、主屋を取り囲む床が足音でバタバタとせわしく鳴り響き、門から主屋へと続く砂利道には、屋敷の大勢の者が集まり出して、しきりに声を上げ始めている。 黙想していた城太郎は、閉じていた目をゆっくりと開け、だが慌てて立ち上がることもせず、やはりその場に座ったまま、事の成り行きを耳で追っていた。 「大変です!」 表に待たせていたはずの下男が、いつの間にか主屋の前庭までやって来た。 城太郎は鎮座したまま声を掛けた。 「何だ」 「そ、それが・・・この屋敷の御主人様が・・・斬られたようです」 「慌てるな。お前は外で待っていろ」 城太郎は刀を丁重に抱え、立ち上がると、主屋を後にして、騒々しい一団が門の辺りを取り囲んでいる光景を目の当たりにした。 腕を抑えた是善が、多くの人に支えられながらも、倒れ掛かっている。 城太郎はその場を通り過ぎて表に出ると、そこには既に侍所の役人が集まっていた。 「あれを見つけたのはお前か」 という声がした。騒ぎを聞きつけてやって来た数人の役人が、二人の商人に話し掛けた。 「はい。滑川の橋から来たと申しておりました。他は皆、死んでおるそうで」 そこで一部の役人は、商人を連れて滑川の橋の袂まで行った。そこも既に騒々しい雰囲気に包まれていた。 城太郎は下男と共に、彼らの後を追って、やや離れた場所からその騒ぎを見守っていた。 橋の袂付近には、三人の斬殺死体が転がっていた。 「武士の端くれ、名もない浮浪の輩か。こやつらの仕業に違いあるまい」 役人が、三人の死体を足で転がしてはこう話すのを、城太郎は聞いた。 「ん?・・・おい、あれを見ろ」 一人の役人が、松明で滑川を照らしていると、腕が一本、何かに引っ掛かっているのか、水の流れに逆らってゆらゆらと水面に浮んでいるのが見えた。 すると別の役人が、一筋の血痕が、小町大路に向かって伸びているのを発見した。その痕跡を追っていくと、やがて辿り着いたのは、御家人被官大沼敬之助の屋敷であった。 それより時を前後して、屋敷内では、左腕を失った敬之助が、二人の下人によって、妻女の許に連れて来られていた。 一体何が起こったのか、全く知る由もない下人たちはただ慌てふためくばかりであったが、妻女は落ち着き払って、彼らを部屋から追い出し、虫の息である敬之助を、冷たく見下ろした。 まだ生きている。 黄朽葉の直垂の胸前を、残された右腕で掻き毟って苦悶する敬之助が負った深手の刀傷を、妻女は足で踏み付けた。 敬之助は苦痛のあまり絶叫し、白目を真っ赤に染めた眼球をかっと見開いた。 何度も足で傷口を踏み付けては、その都度夫の様子を伺う。 まだ生きている。 妻女は勢いよく足を踏み下ろし、それを何度も繰り返した。敬之助はかすれた声で悲鳴を上げるが、もはや聞き取れない。 と、その時、 「おい!ここを開けろ!」 という怒声が響き渡った。 役人が声を荒げて門の開閉を命じていた。 すると、一人の下女が出て来た。 「い、今しがた・・・」 と下女は完全に落ち着きをなくしている。 役人たちは、後ろをついて来た町民らの野次馬を、それ以上踏み込めないよう退かせると、屋敷内に入って血痕が続く主屋に上がり込んだ。 そこには、倒れた敬之助を抱き寄せる、妻女の姿があった。 見るも無残に左腕をざっくりと斬り落とされ、血まみれになった敬之助は事切れていた。 「何があったのでございましょう・・・」 涙声で問いかける妻女は、敬之助に覆いかぶさり号泣した。 板張りの床の上は、無数の刀傷から流れ出る敬之助の血で足の踏み場もないほどだった。 役人はその状況からして、敬之助が橋の袂で賊に襲われたに違いないと判断した。 が、先に発見された是善は、どういった経緯で殺傷事件に関わったのだろうか。 是善は傷は負っていても大事には至らないであろうから、話を聞き出して事の経緯をはっきりさせなければならない。 しかし、その役目は別の役人が、是善が唯一傷を負った腕の手当てをしている最中、詳細に渡って聞き出しているところであった。 是善によれば、勤めの帰り道、滑川沿いで刀を手に対峙している四人の人影を見た。 近付くと、三人の、みすぼらしい身なりをした男たちが刀を振り上げ、一人の武士に襲い掛かった。 是善は加勢し応戦していたが、敬之助は左腕を斬り落とされてしまった。 一人で賊と刀を交えながらも、是善は敬之助を逃がしてやり、最後は三人を片付けたが、自らも腕に傷を負ったため、とりあえずは屋敷へと急いだ、ということであった。 この事件は、のちに招集された評定衆によって協議され、また調査の結果、是善の供述通りとの結論が出された。 未亡人となった妻女は、悲しみのあまり自決しようとしたところを、是善が思い止まらせたという噂が流れた。 その噂の真偽を確かめようとするはずもない鎌倉の人々は、二人を慈愛と同情を込めた眼差しでもって口々に話題にした。 かつては局で人目を盗み情欲にまみれていた二人の関係は、未亡人と、その夫を救おうとしたが果たせなかった役人の、悲しみの果てに結ばれた契りであると人々から羨望され、二人は新しい営みを始めたのだった。 今や是善の妻女となった女は、邪魔者となった明御前を、何処か遠くへ追いやって捨ててしまおうと考えていた。 明御前は相変わらず口を利かなかったが、ただ以前と違うのは、敬之助が死んでしまってからというもの、その悲痛の激しさが、目に見えてわかることだった。 明御前は、決して妻女と目を合わせようともしない。命令されても決して以前のように、従おうとはしなかった。 それは叩いたり足蹴にしたりと、暴力で思い知らせようとしても同じであった。 ちょうどその頃である。刀鍛冶の城太郎が是善の屋敷を訪れたのは酉の刻(午後六時)であった。 是善は食事を終え、部屋で鎮座して待っていた城太郎の前に座り、声を掛けた。 「先だっては見事な刀剣を頂戴致した。感謝しておる」 是善は茶を勧めたが城太郎は断った。 「是善殿。それがしの目は節穴ではございませぬ」 城太郎は突然こう言い放ち、是善を大変驚かせた。 「何を申すか」 愕然とする是善に対して、城太郎は落ち着いた物腰で静かに口を開いた。 「当夜、あの場に居合わせておりましたところ、滑川より腕が掬い上げられ、しかとこの目で見ました。あれは一太刀でございます。賊の刀と未熟な腕では到底適わぬこと。しかし、かつて、それがしが是善殿に献上致しました刀剣であるならば、また、是善殿の腕をもってすれば、難儀なことではございませぬ」 是善は我が耳を疑った。そしてこの若い鍛冶職人に向かって唾を吐きたくなる衝動に駆られたが、何とか押し留めた。 その代わり、彼はいきなり立ち上がると、大声を張り上げて城太郎を罵倒した。 「貴様!そのような言い草はためにならぬぞ!」 「あの刀はどうされたのですか。もう処分されたのでございましょうか?万が一の場合に備え、また刀を作らせたのでございますね。それがしは、いつ起こるかもしれぬ戦に先陣を切って赴く勇敢な武士のために、魂を刀に打ち込んでいるのでございます。己の欲のために人を殺める道具ではございませぬ」 わなわなと震える拳を握り締め、憎悪の念を深く刻んだ形相で立ちはだかる是善は、こやつをどうしたものかと思いあぐんでいる様子だった。 しかし城太郎はそれ以上のことは何も言わず、すくっと腰を上げ、深々と頭を下げた。 「これより先、是善殿のために刀は手掛けますまい」 それだけ言い放つと、彼は屋敷を出て行った。 その話を陰で聞いていた妻女は、あの刀鍛冶をどうしたものかと相談し合った。 面倒なのは、父の雅忠が豪農で問注所の役人と縁故であり顔が効くという点である。 しばらく心の迷いが解けずにいる是善を、妻女は扇動した。 「ねえ。あたしに任せておくれ」 妻女は甘い言葉で囁いて、是善の迷いを払拭した。 それから七日あまり経った日のこと。 畑仕事を終えた弥六は、女房と雅忠の家に戻り農具を片付けていた。 そして納屋から離れ主屋に行こうとしたその途中、小袖を着た女が、門から入ってくるのが見えた。 「おいお前。またあの女が入り込んできたぞ」 弥六はこちらに向かってくる見ず知らずの女に声を掛けようとしたが、それに気付いたのか、女はすうっと主屋の中に入って行った。 「もう逃げられんわい。何処だ」 ところが、弥六が主屋に入ってあちこち探してみたが、女は見つからない。 しかし、女が歩いたと思われる場所は、水が滴り落ちていた。 下人もその騒ぎに気付いて何事かとやって来たが、事情を説明すると、屋敷内を捜索し始めた。 そこへ丁度、雅忠と女房が帰って来た。 「何?またか。しばらくは門番を置いていないことをいいことに入ってきたのだな」 と雅忠は言った。 その夜、酒を飲み交わしていた弥六が珍しく口数が少ないのを不審に思った雅忠が、どうしたのかと問い質した。 「実はのう。あの女、わしは何処かで見たことがあるんじゃ・・・」 「何?知っておると?」 「それがのう・・・今宵初めてふと思ったのじゃが・・・何処で見たのかさっぱり思い出せん」 雅忠は、あれは間違いなく狐の仕業か、もしくは理由はわからないが、人の心を惑わす妖怪が化けて出ているに違いないと言って譲らない。 そんな寓話など一切信じない弥六は、必死に思い出そうとした。 雅忠と弥六がそうして言い争っている頃、鍛冶場では、城太郎が刀を槌で叩いて汗を流していた。 とそこに、小袖の女が突然現れ、彼に話し掛けた。 「わたくしは千代女と申します」 槌音が一瞬止まった。城太郎は背後に佇んでいる女を振り返ることなく、ただ黙している。 「城太郎様ならわたくしの願いを聞き入れて下さるのではないかと察し、こうしてお伺いした次第なのでございます」 城太郎は槌を脇に置いて、前を見据えた。 「その願いとは・・・」 「はい。わたくしの娘を探しております。名を明御前と申します。鎌倉での災いの際、離れ離れになってしまいました。今何処で何をしているのかわかりません。ところで、幾度となく鎌倉へ参られているということは知っておりました。七日前にも一度参られてますね。再び鎌倉へ赴いた際には、わたくしの娘が何処にいるのか、探して下さいませんでしょうか」 城太郎は、ここで初めて女を振り返った。 年の頃四十半ばであろうか。腰の辺りまで垂れた艶やかな黒髪は、風もないのにさやさやとなびいているように見え、緑色の血管がやや浮き出て見える白い肌は、極め細やかな美しさがあった。 しかし、城太郎はこの女に、何かぎこちないものを感じた。 城太郎をひたと見据える目は一切瞬きしない。薄紅をひいた口元がぴくりとも動かない。 そして、まるで雨の中を歩いてきたかのように、衣服をがびしょ濡れだった。 ちょうど女が佇んでいる場所だけ、小さな水溜りが出来ているほどだ。 城太郎は、父の雅忠らから、屋敷内を騒がす女についての話は聞いていた。 千代女と名乗ったこの女がその正体だろうとは思ったが、何か深いわけがあるに違いないと彼は考えた。 「お前は、あの災いで住処を無くしたのか?」 城太郎はここで初めて、女に問うた。 「住処を無くし当て所もなくさ迷っているのならば遠慮なく申し付けろ」 「城太郎様。それに関しましては心配するに及びません。わたくしはただ一心に娘の安否を願うばかりでございます・・・どうか、何卒、お頼み申し上げます」 女は深々と頭を下げた。 城太郎は、明御前という名に聞き覚えがあった。 但し、同一の娘であるかどうか定かではなかったので、この時は女に教えるようなことはしなかった。 城太郎は女に、約束は守ると言った。女はそれを聞くと安心し、また七日後にお伺いしますと言い残して鍛冶場から出て行った。 彼はその後、すぐに鍛冶場から表に出たのだが、女の姿は何処にもなかった。 女が歩いた地面は所々ぬかるんでいたが、辿って行くことは難しそうだった。 そして再び戻ろうとした刹那、西側の納屋から、微かに物音が聞こえた。 城太郎はもしやと思って納屋まで行き、扉を開けたが、使わなくなった家財や農具などを所狭しと置いてあるその中に、女の姿は見当たらなかった。 城太郎は、あの千代女と名乗った女から、明御前という娘を探して欲しいと頼まれたものの、その名に覚えのある是善の屋敷にはもう二度と行けまいと考えた。そうなると、承諾してしまったことを一度は悔いたが、思いもかけず、是善の妻女から文が届けられたのは、それから三日後のことであった。 そこには、実はまだ話していないことがあり、それを口外すると危険が及ぶ、つきましては誰人にもこのことは打ち明けず、夫の留守の間に、お一人で屋敷まで来ていただきたい、そしてこの文もあなたが持っていては危ういので、こちらに来る際に持参して頂きたい、としたためられていた。 城太郎はその文を受け取ると、すぐに鎌倉へと向かった。 巳の刻(午前十時)に是善の屋敷に到着し、彼は妻女に招き入れられた。 「話とは何でございましょうか」 城太郎は、妻女にこう尋ねた。 妻女は、思いつめた様子で話した。 「あなたがここで夫に話したことは、全てお伺い致しました。それであたし、夫に詰め寄ったのです。すると、あの人は、あるお方から、御家人被官の大沼敬之助を殺すようにと脅かされたのだと、あたしに話しました。元はあたしの夫ですから、許されるべきことではありません。訴えようにも証拠がありません。そこで、あなたにお力添えをしていただきたく、文を送った次第なのです」 城太郎は、妻女の言葉ひとつひとつを、噛み砕いて吟味するかのように、じっと目を閉じて聞き入っている様子だった。 そして目を開けて妻女を見据えた瞬間、城太郎はこう言い放った。 「わかりませぬ。なぜあなたは一介の鍛冶屋如きにそのような話をされるのでしょうか。あなたほどのお人ならば、力添えを願い出る役人など、身近に大勢おられるはず」 妻女はたじろがずにはいられなかった。 腕のいい鍛冶屋であろうとも、所詮は若い男。 見下していた自分の甘さを恥じたが、しかし妻女はしたたかな女であった。 「夫と結託している役人がいるかもしれません。そう考えるとあたしはとても落ち着いて考えられなかったのです」 妻女は城太郎の手に触れた。そして深く溜息を吐いたかと思うと、彼の胸に頬を埋めた。 「あたしは一人なのです。誰を信じてよいのかわかりません。どうか、おわかりになって下さい」 妻女は城太郎の体に腕を絡み付けると、顔をぴたりと胸元にくっつけて、おめおめと泣き始めた。 その時城太郎は、妻女の肩越しの向こうに、小娘が立っているのに気付いた。 城太郎は咄嗟に、妻女を体から引き剥がした。 「どうされたのです?あたしの望みを叶えては下さらないのですか?」 妻女は、城太郎の視線を追った。後ろを振り返ると、そこに明御前が立ち竦んでいる。 「明御前」 と、妻女が冷たく言い放つ。 「そこをどき。お前に用はないんだよ」 「あの娘は、あなたの実子ではございませんね?」 妻女は驚いた。 「なぜ今そのようなことを」 城太郎は明御前に視線を移した。 「お前の母は千代女というのか?」 明御前は、いまだかつて妻女が目にしたこともない程の笑顔を満面に称えた。 「駄目ですよ。あの娘は話せないのです」 その声は明らかに苛立っている。これ以上邪魔立てされたくはなかったのだ。 「お前の母は千代女というのか?」 その時、明御前は声を出した。 「はい・・・。わたしの母上は名を千代女と申します」 それを聞いて妻女は驚いた。城太郎は立ち上がり明御前に近付こうとしたが、妻女がそれを許さなかった。 「この娘はあたしが育てた娘です。これ以上干渉すると容赦しませんよ」 妻女は下女を呼び、明御前を別室へ連れて行かせた。 城太郎は踏み止まった。 妻女は再び、卑劣な夫に思い悩む妻を演じ始めたが、明御前が間に入ってからというもの、雰囲気が台無しになってしまった。 そしてなぜ城太郎が明御前の母親の名を知っているのか、気に掛かることもあった。 しかし、もう後には退けないのだ。 妻女は、鬱積していたものを吐き出すかの如く、余りある情念の切っ先を城太郎に向けた。 衣服を自ら脱ぎ捨てて、裸になり、体ごと彼に向かっていった。 しかし、城太郎は妻女を突き飛ばした。 その時だった。 突然局の扉が開き、是善が手下の役人を連れて入ってきた。 妻女は是善に抱きついて、城太郎に脅迫されたと言って罵った。 「お前たち、見たな?拙者の申したことに相違ないな?」 手下の役人は皆一様に頷いた。 「鍛冶屋の分際で肉欲に溺れ人の女に狂言をのたまうとは許さぬ」 是善は刀を抜いた。背後に立つ三人の手下は、有事の際のために刀の柄に手を触れた。 是善の刀は容赦なく振り下ろされ、城太郎の首を吹っ飛ばした。 ごろごろと音を立てて転がったその先に、明御前が立っていた。 明御前は目を見開いて、城太郎の首を凝視している。 「明御前!」 妻女が怒声を張り上げると、明御前はゆっくりと顔を上げ、妻女を見た。 「向こうへ行け」 こう言い放った後是善は、役人に頼んで明御前を表に出させた。 是善は、再び城太郎の死体を見下ろしてにやりと笑った。 「己の刀剣で斬られようとは。愚か者め」 戻る 3へ |
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