恩讐(おんしゅう)(1) 平安時代末期から鎌倉時代にかけての、源氏と平家の戦いは、壇ノ浦で終わりを告げた。 * 壇ノ浦合戦より約七十年後の、鎌倉時代は正嘉元年(一二五七年)の頃のことである。
二位尼は幼い安徳天皇を胸に抱き、敵の手にかかって死ぬよりは自ら命を絶つと女官たちに告げ、彼女たちもまた入水の決意をした。
幼い安徳天皇が何処に行くのかと尋ねると、二位尼は、この世は汚れた世界であるから、安息の地へ参るのです、と答えた。
こうして、安徳天皇を抱いたまま、海の中へと沈んでいき、その後を追うようにして、女官たちも海の藻屑と消えた。
甲冑で身を固めた源氏の、東国団の二人の武士は、平家の漕ぎ手と舵取りを射て、舟の動きを封じていた時、女たちが入水する光景を間近で見ていた。
その二人のうちの、背の低いほうの武士は、幼い娘を抱えて今まさに入水しようとする母親の姿を見つけては、もう一人の若い武士に向かって、放った矢が親子もろとも一度に貫けば、何か褒美をやろうと言った。
それを聞いた若い武士は、すぐ様矢を放ち、それは放物線を描いて、母娘を一度に貫き、息絶えた母娘は、そのまま海の底へと沈んでいった。
さて、この矢を放った武士はのちに鎌倉に下向し、頼朝の政務の補佐を行う一人に任じられた。
その頃になって、彼は名もないある年老いた絵師に、壇ノ浦合戦で、平家方の母娘を矢で貫いたことを自慢げに話すと、絵師はその情景を想像して一幅の絵にした。ところが絵師は哀れんで、矢に貫かれたことは、描かないでおいた。
描き終えたその夜、絵師が寝床でうとうとしているところへ、濡れた小袖を着た女が小さな女の子の手を引いて現れ、絵師に語りかけた。
「あなたの手によって、わたくしどもの魂は紙に染め流されました。それにより怨念の呪縛は自ずと解き放たれ、わたくしどもは永遠に、あの一幅の絵の中で安息できるでしょう」
ところがこの絵師は博学であった。彼はこう言った。
「間違ったことをおっしゃられるお方だ。あなたが怨みを晴らそうとせずとも、その時はいずれやってくるものですよ。あなた方を殺したその報いは、必ず受けなければなりません。そしてそれは、あなたがたの手によって必ずや果たされるでしょう」
それから更に数年後、あの矢を放った武士は、侍所の執事になった頃結婚し、夫妻の間に子供が出来た。その息子もやがて成長すると結婚し、男の子が生まれたが、その頃、男の子の祖父であるあの武士は、病気で世を去った。
その生まれた孫の名は是善といって、のちに幕府の鎌倉大番になった。
この物語に出てくる是善とは彼のことである。
相模国鎌倉に、執権北条一門の有力御家人に仕える大沼敬之助という御家人被官がいた。
父の代から主君の家臣であり、武術にも優れ、人望も厚く、そのうえ幕府の中でも極めて年の若い役人であった。
妻との間には産まれたばかりの息子がおり、屋敷は滑川沿にあった。
正嘉元年の八月の初旬、敬之助は主家のお呼び立てがあって、妻と子を鎌倉に残し、下男を数名随えて伊豆国へと赴いた。
ところがその数日後の八月二十三日、敬之助が伊豆国での所用を終え、鎌倉への帰路についてしばらくの後、亥の刻頃(午後十一時)、現代では正嘉の大地震と云われる、未曾有の大地震が、鎌倉の町を襲った。
敬之助の一行は、帰路の途中、大磯の宿を過ぎた辺りですれ違った飛脚から、鎌倉に大地震が起こったと教えられた。
こうして、侍烏帽子に直垂姿の敬之助は、馬上の人となり闇夜の中を疾走し、鎌倉へと急いだ。
街より西、長谷小路を駆け抜けて、一刻も早く屋敷へ戻り妻子の安否を知りたいという、焦る気持ちを抑えることができず、一糸纏わぬ姿で走り回る大勢の男たちや、子を抱え血まみれになった女房などに行く手を阻まれると、そこを退けと声を張り上げ馬を走らせた。
茫然自失となっている被災者たちを横目に長谷小路を走っていると、前方に伽藍が倒壊した寺院があった。
敬之助はその寺院を通り過ぎようとした刹那、何やらうめき声を聞いたような気がした。
力のない足取りでそこを通り過ぎて行く者は何人もいたが、誰も気付いた様子がない。
このまま馬を走らせるか、それとも伽藍の下敷きになっているらしい人間を助けるべきか、彼はひじょうに迷った。
しかし、敬之助は、そのまま馬を走らせず、寺院を過ぎたあたりで馬から下りた。
寺院は完全に倒壊している。他に手を借りなければ、到底一人では助け出せそうにない気がした。
しかし、必死に痛みに耐えているかのような、か細く途切れそうな声のする辺りまで、瓦礫や木片を踏んで進みながら退かしていくと、果たしてそこには、年の頃十ニ、三歳くらいであろうか、一人の女童(めのわらわ)が生き埋めになっていた。敬之助は、残骸を払いのけて、女童の両脇に手を差し入れ、少し引っ張ったがひじょうに痛がった。
更に瓦礫を抱え、遠くへ投げ捨て、それを何度も繰り返したのち、ようやく救出することができた。
腰まで伸びた元結の髪は埃にまみれ、小袖も腰に巻いた褶も所々破けている。
両手で抱えて道の路肩まで引きずり、持ち上げて馬に乗せた。
女童は少しばかり意識はあったが朦朧としている様子だった。
砂埃が付着した顔には擦り傷もあったが、他に深手を負っている様子もない。
しかしなぜか、衣服がすっかり濡れている。
女童は明御前と名乗った。
聞けば、家は名越で家族の安否はわからないという。
家屋が倒れそうになり、また火の手が広がったため、母親が明御前を外へやり、慌てて逃げ出し、無人になっていた寺院に駆け込んだが、
気付いた時には倒壊した伽藍の下に生き埋めになっていたというのだ。
敬之助は、思っていたよりも明御前の声音がしっかりしていることに安堵した。
やがて馬に飛び乗り明御前を乗せたまま、再び滑川沿の屋敷へと急いだ。
ところが屋敷は半壊していた。門前の茣蓙の上に、筵(むしろ)で覆われた二つの亡骸を目にするや、敬之助は絶望的になった。
数人の下人がその横で、べっとりと血の滲んだ、埃まみれの水干姿で立っていた。
「御主人様。つい先ほどまで、奥方も御子息も息がございました。しかし、ちょうど御主人様の、馬の蹄の音が聞こえるか、聞こえないかの、まさにその時に、ひっそりと息を引き取られました」
下人はこう報告した。
敬之助は莚を剥ぎ取ると、全身が真っ赤に焼きただれた妻女と我が子を強く引き寄せると、彼は延々と啜り泣き、下人たちも涙した。
しかし、そんな悲嘆のさなかにあっても、敬之助は賢明な男であった。
彼は下人に力のない声音で話し掛け、馬上の明御前を早く家に連れて帰ってあげるようにと指図した。
下人はそのまま馬に跨り、明御前から家の場所を聞き出したもう一人の下人が、松明を掲げ先導した。
小町大路を南下し、前浜を右手に南東に進んで名越へと向かった。そこに辿り着くまでの間、路頭に迷った多くの町民が、辺りをうろうろしていたり、路の端に座り込み泣き叫んでいたりと喧騒を呈していた。
名越の辺りは鬱蒼と茂った松林に取り囲まれており、民家も数少ない土地だった。
明御前は下人に馬から降ろしてもらうと、もはや見るかげもなくなった住居の前にしゃがみ込み、「母上」と叫んだ。
しかし、地面に落ちた板葺きの屋根は見る影もなく、いまだ火がくすぶっている柱の残骸があちこちに散乱しているその中から、人の声が聞こえてくることはなかった。
いたとしても、もはや助かってはいないだろう。
そう思いながらも二人の下人は、ふと妙なことに気付いた。
知人ではないが、その家は弥六という名の農民の家であり、そして彼に娘はなく、妻と二人暮らしであるということを、下人は知っていたからである。
「ここはお前の住処に間違いはないのか?これは弥六の家だぞ。お前の父親なのか?」
下人は不審に思い尋ねたが、明御前は何も答えない。ただ、「母上」と叫び続けるだけである。
仕方なく下人たちは、長い時間を掛けて隈なく探し回った。が、死体も見つからなかった。
なかなか諦めない明御前を、半ば無理矢理馬に乗せると、再び屋敷へと走らせ、ちょうど妻子の遺体に莚を被せようとしていた敬之助に、事の次第を伝えた。
それを聞いた敬之助は、明御前がひどく動揺していて、家の場所さえ正確に思い出せないのではないかと思い、とりあえず今夜は自分の許に置いておこうと考えたのだった。
鎌倉に甚大な被害を及ぼした夜は、こうして過ぎ去ろうとしていたのだった。
