蝿 木下聡が通勤のために、毎朝荻窪駅のホームで待つのは、八時十分発の東西線直通電車と決まっている。 大手町方面の進行方向の一番端に立ち、朝刊を広げ電車がホームに入ってくるのを待つ。 木下はこの習慣を堅実に守っていた。 少し話を戻すとこうだ。朝六時きっかりに起床するが、低血圧の体質のせいもあって目覚めきるまでに時間がかかる。 そのため、二人の小さな娘たちがぞろぞろと起床してくる六時半までは、居間で寛ぎながらテレビを眺めている。 その間に妻の麻由美が食事を作り終え、それを食べ終えるのがおよそ七時頃。その後シャワーを浴び、着替え、家を出るのが七時五十分。自転車に跨り颯爽と出発すると、いつも走る道には、同じく自転車に乗ったサラリーマンたちが方々から現れて、やがて彼らの殆どが利用する最寄の有料駐輪場に自転車を置き、駅のホームに立って電車を待つのが八時五分だ。 ホームの、進行方向の一番端にはそれほど人はいない。いつも彼の他に二、三人、いるかいないか、である。 しかし木下はそんなことには関心がなかった。五年間も、毎朝決まった時間にホームに立ち、決まった電車に乗っていると、知った顔も、恐らくは何人かいるだろう、と思うこともあるが、そんなことよりも、彼は出勤前に新聞の紙面の殆どに目を通さないと気が済まなかった。 それも、破られるようなことがあってはならない、彼にとっては大切な習慣だった。だったら余裕持って家で読んだらいいじゃない、と妻の麻由美は指摘するが、家でも、守らなければいけない習慣がある、と木下は言う。 木下にとって新聞は、出勤時、駅から駅に辿り着くまでの間に、ある種の程よい緊張感を持って読むのがいいのだ。 決められた時間の中で読むのがいいのであって、だらだらと読むものではない、と彼は常々妻に言っている。 その日も木下は、八時五分に、荻窪駅のホームで、東西線直通の電車を待っていた。 鞄から、折りたたんである新聞を取り出し、それを広げて読み始める。 そうしながらも、ハンカチで額の汗を拭った。 残暑の蒸し暑いこの季節、通勤だけでも一苦労であった。 やがてズボンの後ろポケットにハンカチを戻すと、再び新聞を両手に持ち、紙面を目で追い始めた。 その時、一匹の蝿が、何処からともなく飛んできて、小さく、そして甲高い、不快な音を立てて、新聞の上を横切った。 少し仰け反って蝿をよけたが、あまり気に掛けることもなく、木下はすぐに新聞を読み始めた。 ところが、また蝿が視界に入り込んできて、それは縦横無尽に飛び回った。 木下は軽く手で払ったが、蝿はそれでも彼の周囲をブンブン飛んでいる。 気にしないように努めようとしたが、紙面の上を右へ左へ行ったり来たりして、その鬱陶しさは、彼を苛立たせるのに充分だった。 何度も手で払うが、一向に離れる気配がない。 そこで、手にしている新聞を筒状に丸め始めた。 木下はそれを右手に持つと、蝿が目の前を通過したところで、やや力を込めた一振りを、お見舞いした。 が、それは空を切って、目の前で電車を待っていた、女の肩をかすめてしまった。 その時、木下は、女が、俯き加減だった頭を、はっ、と驚いたようにして上げたのを見た。 そしてゆっくりと背後を振り返って、目が合った。 女は、化粧っ気のない、色白の、ややふっくらとした面立ちで、年は三十前後と思われた。 伏目がちな目は、曇天のようにどんよりとしていて、木下は一瞬たじろがずにはいられなかった。 「すみません・・・」 と詫びるのが精一杯だった。 女は、それとわかる程度に頬を緩めると、軽く会釈をし、しばらく木下の顔をじっと見上げていた。 木下は、女が何か言いたげな雰囲気であるのを感じ取り、もう一度しっかり謝罪した方がいいのかと思った。 「あの、さっき蝿が・・・」 と言いかけたところで、電車がホームに入ってきた。 電車は速度を緩めると停まって、やがてドアが開いた。 女は一言も喋らないまま、電車の中に入って行った。 木下もその後に続き、いつも決まって座っている一番端の席に腰を落ち着かせると、ドアが閉じて、電車は走り出した。 木下は新聞に視線を落としながらも、さっきの女のことが妙に引っ掛かって仕方なかった。 少し顔を上げ、辺りに目を配る。すると、女は、木下の向かい側のドアに寄り掛かって、外を眺めていた。 別に気にしている様子はないと思って安心し、小さく溜息を漏らすと、紙面に目を移した。 やがて電車は中野を過ぎて、地下に入った。 新聞を捲る際に、木下は何気に、顔を上げ、まだドアに寄りかかっている女に目をやった。 女は外を見ている。が、もう地下に入っているので見慣れた景観はもうそこにはない。 あるのは、ドアのガラスに映った女の顔。そしてその女の顔は、じっと木下を見ていた。 ガラス越しに、新聞を手に座っている木下を、女は見ていた。 木下はその様子に気付いたが、別に気にすることもなかった。 しかし、女が一向に視線を逸らさないことに、少しばかり不快感を抱き、その視線に気付かないふりをしながら、更に新聞を読み進め、やがて電車は高田馬場駅に到着した。 彼は立ち上がって、女の立つドアに歩み寄った。 女は、近付いてくる木下を、ガラス越しに確認したのか、やや後ろに下がった。 電車は速度を落とし、やがて停まった。 ドアが開いた。 彼はホームに降り立つ時、女の視線を強く感じた。 しばらくするとドアは閉まり、やがて女を乗せた電車は、次の駅へと走り去って行った。 次の日の朝、木下がホームにやって来た時、昨日の女が立っていることに気付いた。 女の背後に立って、いつものように、鞄から新聞を取り出してそれを広げ、読み始める。 が、彼はそこでふと思った。 この女は、これまでもこのホームで、私の前に立っていただろうか。 彼は、同じ時刻にホームで電車を待つ人間に、今だかつて興味を示したことはなかった。 彼にとってはどうでもいいことなのだ。 そこで必死に思い出そうとするが、どうしても思い出せない。 いたような気もするし、最近見かけるようになったような気もする。 いずれにせよ、地味で垢抜けず、存在感のないこの女からは何の魅力も感じ取れないので、思い出せないのも無理からぬことだと自分に言い聞かせた。 電車がホームに入ってくると、彼は顔を上げた。 ドアが開き、電車は客を迎え入れる。 いつもの席に落ち着き、ちらっと向かい側のドアに視線をやると、やはり女がドアに寄りかかるようにして立っている。 木下は軽く頭を振って、女の存在を頭から消し去ろうと努めた。 やがて電車は中野を過ぎて地下に入った。 新聞から顔を上げると、女は今日もドアのガラス越しに、木下をじっと見つめている。 影を落としている伏目がちな顔の、どんよりとしたその眼差しだけは、はっきりと見て取れた。 やがて高田馬場に到着すると、木下は電車を降りた。 ドアが背後で閉まった瞬間、何気なく振り返ると、ドアの向こうに立っている女は、少し微笑んだようにも見え、 やがて電車が見えなくなるまでの間、その視線は木下を捉えて離すことはなかった。 木下は都市銀行に勤めて十三年になる。 地元の水戸市にある支店に勤めたのが始まりだったが、金融業界の統廃合による再編の嵐が吹き荒れて、合併によって経営が安定したちょうど五年前、かねてより望んでいた東京の支店に、晴れて転勤となったのだった。 合理化の煽りを受けて不本意な転勤を余儀なくされた同僚が多い中、それは幸運だったと言ってもよかった。 かつて同じ銀行に勤めていた妻の麻由美は、七年前、結婚と同時に退職し、それから長女を出産した。 その後東京に来て、やがて次女を生んだ。 当初、木下は男の子が欲しいと妻にぼやいていたが、成長する二人の娘の姿を目の当たりにすると、その思いをすんなり消し去ることが出来た。 仕事も家庭も安定した、この充実した毎日には、何の不満もない。 これこそ、木下が望んでいたものだった。 しかし、三十七歳を迎えたその日の朝、彼はいつものように自転車に乗って駅に向かい、やがて決まった時間にホームに立った時、あの、二日前の一匹の蝿のせいで、余計な神経を使うことになってしまったことが、唯一の不満だと思わずにはいられなかった。 彼が不快に思うのは、朝の習慣が破られようとしていることだった。 彼は新聞を見てはいるが、決して読んではいない。神経を集中しようとするが、その度に掻き乱され、目の前に立っている女へと向けられてしまう。 それにしても、と木下は思う。 この女は、私に何か言いたいのだろうか。蝿を追い払おうとした際、間違って彼女の肩口に新聞紙が当たってしまったことを、この女は、しつこく、ねちねちと、怨み続けているのだろうか。 やがて電車が入ってきた。女は電車に乗ると、向かい側のドアに身をもたせ掛けるのを、木下は目で追っていた。 いつもの座席に座り、新聞に目を落とすが、どうも集中できない。ここのところ目が疲れているようだ。 彼は眉間の辺りを抑えながら、新聞を折りたたんで、鞄に仕舞った。 そして少し俯き目を閉じた。 電車は、高円寺駅を過ぎて、中野駅に到着した。 そして地下に入った。 木下は目を開けると、向かい側の座席で本を読んでいる婦人に目をやった。だが実のところ、その視界の隅にいる女の存在が気になっている。 彼女は今も、ドアに寄りかかって、ガラス越しに私を見ているに違いない。 だが木下は、決して目を合わせなかった。女に視線を向けることもしなかった。 やがて電車は高田馬場駅に到着した。 木下は、立ち上がると、女のいるドアからではなく、座席を挟んだ、隣のドアからホームに降り立った。 ドアが背後でゆっくりと閉まり、発車するのを、彼は耳で聞いた。 そしてその間も、きっとあの女は、私の背中を見ているに違いないと思いながら、地上へと上がって行った。 木下は、次の日の朝、初めて、通勤の電車を一本遅らせようと考えた。 いつもより五分遅れて家を出ようとしている夫に気付いた麻由美は、怪訝そうな声音で、 「何か嫌なことでもあったの?」 と尋ねるほどだった。 習慣を堅実に守る夫が、時間には人一倍うるさい夫が、朝の出勤を五分遅らせるということは、何か余程のことがあったのではないかと妻に思わせた。 それについて、夫が何も言わないので余計に怪しんだ。 木下は、大したことではないと妻に思わせようと、軽くあしらっていたのだが、それが逆効果だったと気付いて、玄関口で革靴を履きながら慌てて弁解した。 「いつもの電車より、一つ後の電車の方が空いているということに気付いたんだ。ゆっくり座りながら新聞を読みたいだけだ」 と言って、家を出て自転車に乗り、やがて駅に向かった。 九月の初旬とはいえ、まだまだ蒸し暑かった。特にその日は格別だった。 木下は上着を脱いで、ハンカチで汗を拭った。 時計に目をやると、八時十三分だった。 次の電車は八時十七分である。 それにしても、これは腹立たしいことだと、木下は、改札を通りながら、そう思わずにはいられなかった。 こんなことのために、どうして私が電車を一本遅らせなければいけないのだ。 馬鹿馬鹿しいことだとは思いつつ、これで清々したとも思う。 もうあの女に会うこともない。これからは、この時間に駅に来て、電車に乗ることが、私の習慣となるだろう、と木下は思った。 エスカレータでホームに上がると、進行方向に向かって歩いた。 と、そこで、彼は立ち止まってしまった。 あの女がいるではないか。 木下は、この時初めて、寒気がした。 あの女は、いつもの場所に、やや俯き加減の、猫背の姿勢で、じっと立っている。 どうしたものか、と彼はその場に立ち竦んでしまい、前に進むことが出来なかった。 このまま何食わぬ顔で、女の後ろに立って電車を待とうか、という考えが頭をよぎったが、彼はすぐにそれを打ち消した。 しばらく呆然となったまま女を見ていると、電車がホームに入って来た。 あの女は乗るのだろうか。 私はこの電車に乗るべきだろうか。 やがて電車は速度を落とし、停まった。 ドアが開いた。 この後の電車は何分頃だろうか。 彼はホームにある時刻表を見ようとしたが、もうそんな時間的余裕もないことに気付き、慌てて最寄のドアから中へ駆け込んだ。 その時、彼は、ずっと先の、一つの影が、同じように電車に駆け込むのを、見たような気がした。 そこは、毎朝乗っている車両とは違い、乗客が多かったので、座ることが出来ない。 仕方なく木下は、上着を着て、鞄を肩に掛け、ドアに寄りかかりながら、新聞を読むことにした。 しかし、全く読む気がしない。 今日は目は疲れてはいないが、気が少しばかり動転している。 いつも乗っている車両は、彼が背を向けている、そのずっと先にある。 新聞を片手に握り締めながら、肩越しにゆっくりと、後ろを振り返った。 吊革に掴まって外の景色に目をやっている若い男、その前では老人が熟睡している。 その向かい側の席では、若い女が鏡を手に口紅を塗っている。 その横に座っている数人の男は皆サラリーマン風で、雑誌や文庫本を広げて読書に没頭している。 その先は、隣の車両へと続く。 木下はそこまで目で追って、視線を移しかけたその時、ふらっと、隣の車両から、あの女がやって来たのに気付いた。 そして女はドアに寄り掛かると、吊革を掴んで立っている乗客の隙間から、木下をじっと見た。 どんよりとした女の片目だけがその隙間から見えて、それが瞬きもせず見ていることに、木下は鳥肌の立つ思いがした。 すぐに視線を逸らして、新聞を広げ、読んでいるふりをした。 もう二度と、後ろは振り返らない。 そして二度と、この電車に乗るものか。 彼の決意は固かった。 「最近、顔色が悪いんじゃない?」 と麻由美に言われたのは、それから一週間後のことだった。 夜、仕事から帰宅した木下は、妻の麻由美と一緒に食事をしている際に、ここのところ様子がおかしいと指摘された。 「やっぱり仕事で嫌なことでもあったんでしょう?」 麻由美は詮索したがったが、夫は決して本当のことは言わなかった。 誤魔化そうともせずに、ただ口を噤んでいるだけである。 これには妻も黙ってはいられなかった。 一週間前の朝、出勤時間を、これからは五分遅らせると言っていたのに、次の日には二十分も早めて、家を出るようになった。 木下はその際、大口の仕事を抱えてしまったために、しばらく早めに出勤すると妻に言ったが、本当は、隣の阿佐ヶ谷駅まで自転車を漕ぎ、そこから東西線に乗っているのだった。 あの女に会わないために。 そしてそれは、どうやら成功したようだった。 しかし、どうしても、あの女のことが頭から離れなかった。 仕事でも、小さなミスをやらかすようになった。 常にそわそわして落ち着かなくなり、怒りっぽくなった。 彼がこれまでに築き上げ、大切にしてきた多くの習慣もあっさり破られて、脆くも崩れ去るのと同時に、メリハリがなくなり、緊張感が解け、惰性の中で生活をするようになってきた。 「本当のこと言ってよ、あなた」 麻由美の口調は激しかった。 「何でもないったら。仕事で忙しいだけだから」 木下も、苛立ちを隠そうともしない声音で、強く言い放った。 麻由美は、勝手にしてよ、と言わんばかりに、立ち上がって、二階の寝室に引っ込んで行った。 木下は、一人酒を口にしながら、深い溜息を吐いた。 彼がその夜寝室に入ったのは、深夜一時だった。 以前は、午後十一時には布団に入っていた。これも習慣だった。 ところが、近頃は、一時二時が当たり前になってしまい、朝起きるのが余計に辛くなった。 それでも朝は、かつての時間よりも、二十分以上も早く家を出なければならないのだ。 木下は、既に熟睡している妻の横で、天井を見つめながら、この空虚感は、一体どうしたものだろうかと、自問せずにはいられなかった。 なぜ、こうなってしまったのだろうか。 押し留めようとしても、どうにもならないような気がする。 私はどうなってしまうのだろうか。 その時、天井を見つめていた彼の視界に、ふっ、と横切るものがあった。 「蝿だ・・・」 家の中で、蝿を見ることなど滅多にないことだった。 だがそれは、実際に、視界の中を、まるで彼を弄ぶかのように、右から左へ、左から右へと、不気味な音を立てながら、飛び回っている。 木下ははおもむろにベッドの上に立ち上がると、そして枕を手に、天井に向かってそれを振り回した。 すると、蝿は更に勢いをつけて、窓の方へ飛んで行った。 ベッドから降りて、蝿が窓に止まっているのを見た木下は、枕を思いっきり、窓に向かって投げつけた。 その音で、麻由美が目を覚ました。 「何やってるのあなた!」 枕を拾い上げた木下は、蝿がいたんだと正直に話した。この状況で、どう言い繕っても、無駄だと思ったからだ。 「蝿?・・・何処にいるのよ?あなた、どうかしたんじゃないの?」 呆れ返るその声に、木下はますます妻に突き放されたような感覚に陥った。 麻由美は部屋の電気を点けて、念のために窓に亀裂が走っていないか調べ始めたようだった。 外は雨が降っていた。 そして、麻由美が一瞬窓を開けたその時、家の前の路地の、電柱の陰に、真っ赤な傘を見た。 木下は、再び窓を閉めようとした妻を制止して、身を乗り出して外を見た。 あの女だ。 木下にはすぐにわかった。 雨の中、真っ赤な傘を差し、じっと立ち竦んでこちらの様子を伺っているのは、間違いなく、あの女に違いなかった。 木下はふらついた足取りで窓際から離れると、怪訝そうに夫を見やりながら窓を閉める妻を尻目に、一階に降りた。 そして玄関から、雨が降りしきる闇夜の中に一歩出て、確認した。 女はもうそこにはいなかった。 「あなた!何やってるのよ!」 麻由美が二階から降りてきて激しく叱責した。 「何でもない・・・気にするな」 彼は言った。 そんな夫を見て、妻はただ呆れ返るばかりである。 居間のソファで一人、横になった夫を見下ろしながら、妻は溜息を吐いて二階に上がって行った。 木下は一睡も出来なかった。 次の日の朝、麻由美は一言も話し掛けなかった。 二人の娘は、両親の間に流れる不穏な空気を感じ取ったようで、家の中は険悪な雰囲気に包まれていた。 木下も、家を出るまで、誰にも話し掛けなかった。そして七時半になる前に、逃げるようにして自宅を出て、門扉の横に据え付けてあるポストから、新聞を取り出した。 すると、白い封筒が、ぽとりと地面に落ちた。 新聞を脇に挟み、封筒から一枚の便箋を取り出して、それを開いた。 もっと私に触れて下さい。もっと私に触れて下さい。 便箋に、木下に語りかける、その一文だけが、びっしりと書き込まれていた。 木下は愕然と、その尋常ではない文面を凝視した。 もっと私に触れて下さい。もっと私に触れて下さい。 あの時の蝿だ。 木下は思った。 あれがそもそもの始まりだった。 だが・・・私が一体何をしたというのだ・・・。 木下は、その手紙を破ってくしゃくしゃに丸めると、自転車に乗り、阿佐ヶ谷駅に行く途中で見つけた公園の屑カゴに、それを投げ入れた。 やがて駅前の駐輪場に自転車を置いて駅に入った。 七時五十五分発の東西線直通電車に乗るため、ホームに向かったが、わざわざ阿佐ヶ谷駅まで来て電車に乗るのも、もう無意味なことに違いないと木下は思い始めた。 あの女は、私の家に来た。そして、狂気じみた手紙を残していった。 なぜ私に付きまとうのか。私が何をしたというのか。 木下は、汗を拭いながら、ホームに向かう乗客の列に加わってエスカレータに乗った。 そしてホームに上がると、いつもの場所へと歩き出す。 が、木下は歩みを止めた。 あの女がいた。 エスカレータでホームに上がったのと同時に、彼は女と目が合った。 木下は踵を返して、反対方向へと歩き出した。 電車がホームに入ってきた。その歩みはやがて小走りとなり、人を掻き分けながらどんどん進んだ。 電車は停まって、ドアが開いた。彼は飛び乗って、更に後方へと進む。 そして最も混んでいそうな車両で立ち止まり、強引に乗客の間に立って吊革を掴み、ハンカチで汗を拭った。 高田馬場駅に着くまで、彼は周囲に目を配るようなことはしなかった。 きっとあの女が、近くまでやって来て、私を見ているに違いない。 そう思うと、とてもではないが、窓外から目を離すことなどできなかった。 高田馬場駅に到着すると、彼は電車を降り、ホームにある椅子に腰掛け、小休止した。 そして電車が走り去るのを確認した後、立ち上がって歩き出し、地上へ出た。 彼はその日から、度々外泊するようになった。 友人の家で麻雀をやる、帰りに飲んだが終電を逃した、など適当な理由を繕っては、麻由美を騙した。 最初の頃は、妻も、何かと愚痴を零しては夫の不摂生を責めていたが、徐々に何も言わなくなった。 外泊する旨を伝えようと退社後自宅に電話をしても、誰も出ないことが多くなった。 家に帰っても、麻由美が料理を作って待っていることが殆どなくなり、子供たちも、あからさまに父親を敬遠し始めた。 そして、あの女は、度々家にやってきては、手紙を投函していた。 木下は、それを二度ばかり読んだが、同じ文面であったので、それ以降目を通すようなことはしなかった。 家から出勤する場合、彼は高円寺駅、もしくは中野駅まで自転車で向かい、そこから乗るようにした。 二日続けて同じ駅から乗車するようなことはしなかった。 妻は土曜日、朝から娘たちを連れて出して、水戸の実家へ行った。 日曜日の夜に戻ってきたが、木下は何も妻から聞き出そうともせず、妻も、何も話そうとはしなかった。 その次の日の月曜日の朝、木下は自宅を出た時、タクシーが一台、十メートル程離れた場所に停まっているのに気付いた。 心の何処かで引っ掛かるものを感じながらも、彼は自転車に跨り高円寺駅へと向かった。 駅までの、半分以上もの距離を進んだ時、背後からタクシーが彼を追い抜いて行った。 木下は、ちょうどタクシーが走り過ぎようとした際に、ちらっと横目で後部座席を見た。 あの女が乗っていた。 木下は自転車を止めた。 吐き気がした。呼吸が荒くなり、胸苦しさを憶えた。 力を振り絞るようにして、彼は再び自転車を漕ぎ出し、やがて駐輪場に自転車を置き、駅の構内に入った。 ホームへと続くエスカレータを見上げる木下を、邪魔だとばかりに背後から突き飛ばして駆け上がって行く多くの客は、振り返って呆然と立ち竦む彼の様子を首を傾げながら眺めていた。 木下は、そのままエスカレータには乗らず、駅の公衆トイレに入った。 そして、最近始めた煙草を一服吹かした。 手が小刻みに震えている。頭の中も真っ白だった。彼は、汗ばんだ指先に挟んでいた煙草を吸い終えると、トイレから出て、またしばらくの間、エスカレータの手前で立ち止まっていたが、意を決したかのように、それに飛び乗ってホームへと向かって行った。 女は、一番端に立っていた。 木下は、血の気のない顔を強張らせたまま、ゆっくりと歩んで、女に近付いて行く。 女は、じっと立ったまま身じろぎもしない。 木下は、ゆっくりと進んだ。 そして、女の背後に立った。 蝿が彼の視界に入ってきた。 だが気にも留めなかった。 蝿は、ブンブン音を立てて、俊敏に彼の周囲を飛び回る。 彼の引きつった顔からは、汗が一滴、額から頬を伝って、やがて顎から滴り落ちた。 震える手で鞄を足元に置き、そのまま電車を来るのを待った。 俯き加減の、丸い背中は、ぴくりとも動かない、木下を振り返ることもしない。 女も、そして木下も、ただ、電車がやって来るのを待っていた。 やがてアナウンスが流れた。 それから間もなく、八時発の東西線直通電車が、駅に入ってきた。 木下は、汗で滲んだ両手を、女の背中の、ちょうど真ん中に、勢いよく突き出した。 もっと私に触れて下さい。 その瞬間、あの言葉が木下の脳裏に蘇った。 女は線路へ落ちた。 電車は速度を落としていた。最前端であるから、運転士の顔もよく見える。 それは運転士も同じであった。 彼は、電車を減速させ、やがて停まるまでの間に、ホームに立っていた三十前後の女が、突然線路に飛び込むのを見た。 運転士は顔を背けた。彼にとってはそれが初めての経験であった。 かなり減速していたとはいえ、飛び込んでしまってはもう助かる見込みはない。 停車させた直後、運転士はすぐさま操縦室を出た。 数名の駅員もすぐに駆けつけた。 方々で悲鳴が聞こえた。 一人の駅員が、最前端で電車を待っていた三人に声を掛けた。 それは、五十がらみの婦人、大学生の男、そして、三十代と思しきサラリーマンだった。 婦人と大学生は同じ証言をした。 「彼女は突然、自ら飛び込みました」 また、離れた所から、女が電車に飛び込むのをたまたま目撃した人間も数人いたが、彼らもまた同じことを話した。 しかし、彼女の真後ろにいたサラリーマンの男だけは何も言わなかった。 喋ることすら出来ず、ただ呆然と、線路を見下ろし、跪いて、打ちひしがれたような姿のまま、ずっと、固まっているだけであった。 その日の夜、自宅に戻った木下は、妻からの置手紙を見た。 妻は娘と共に実家に行って、しばらく戻らない旨の内容が、手紙に認められていた。 木下は誰もいない居間のソファに、スーツ姿のまま、まるで抜け殻のように横たわると、次の日の朝まで、ずっとそうしていたのだった。 朝八時。四谷駅の中央線上り電車を待つホームの最前端で、一人の若い女が本を読んでいた。 朝の忙しない時間帯ということもあり、駅構内は混雑している。 彼女がその時間に、東京駅行の上り電車を待つというのはいつものことであった。 その時、本を読んでいた彼女は、一匹の蝿が、顔を掠めていったのを不快に思って、手で振り払おうとした。 だが一向に飛び去る気配がないので、本で振り払おうとしたが、全く効果がなかった。 「やだわ。もう、しつこい」 そう思わず呟いてしまった時、目の前に立っていた男が、はっとしたように顔を上げ、後ろを振り返った。 無精髭を生やしたその男の顔は、病人のように青白かった。 女はしまったと思った。というのも、理由はわからないが、この男に対して言ったものと、捉えられたような気がしたからである。 「あの・・・違うんです。今、蝿が・・・」 それを聞いた木下は、うっすらと笑みを浮かべた。 戻る HOME |