アイリスの花畑
故郷へ思いを巡らすと決まって去来するものは、尾根の連なる北アルプスの雄大な景観、そこから集まってくる清流のせせらぎは梓川で、その土手に点在する桜並木やしだれ桜は春の匂いがする。 標高六〇〇メートルに広がる扇伏地の梓川村に思いを馳せば、長閑な田園を通る微風にのって香ってくるのは林檎畑のほのかな甘い蜜の匂い、残雪のアルプスの季節ともなれば、花が咲き乱れ新緑が芽吹き眩しく色付く、躍動する安曇野の春だ。 渓谷で水遊びをしたのは遥か昔の夏の思い出、新緑から深緑へ、緑が移ろう景色から、秋の紅葉の鮮やかな色彩ともなれば谷間の空気をも変えてしまう美しさ。 十年ぶりに故郷の山麓の道を踏みしめた福山紗智子は、安曇野の南西部に位置するその小さな町が、かつての面影を僅かに残すに留まっていることを知ったものの、山あり川あり、緑と水に囲まれた里の、その荘厳な景色は昔と同じようだ。 梓橋駅を降りてタクシーに乗って降りたのは、梓川の辺。 自然な景観を保っている河原は少ないのだろうか、コンクリートの護岸はあまり見たことがなかったが、今ではそれが当たり前のようだ。カワセミやヤマセミ、それにセキレイのような水辺の鳥は、もっと多く見られたはずだが、松本市郊外という立地のためか、田園から住宅地へ様変わりし、農道沿いには郊外型の大型店が立ち並び始め、親設の道路の影響で交通量が増えているこの環境ならば、仕方のないことかもしれない。 紗智子は梓川を見下ろしながら、安曇野の春の匂いを胸一杯に吸い込んで、川沿いを歩き中央橋を過ぎたところで右に折れ、実家のある氷室の方角へと進んだ。 見渡す限りの田園風景だった土地は、松本市のベットタウン化によって人口が増え、新興住宅が随分増えた。 何もなかったからこそ、心の安息となりえたかつての故郷。 私の知らない人たち。故郷を去り、死んでいく人たちに代わって、新しい住民が、北アルプスの麓に安らぎを求めて吸い寄せられてくる。 回顧する故郷の思い出に、一切関わってこない彼らが、なぜこの土地を選んだのか紗智子は知らない。 いつしか彼らが、この土地を、この故郷を懐かしむ時が訪れるとすれば、その時にはもう私はいないだろうと紗智子は思う。 梓川村で長い年月を過ごした紗智子の存在は、砂浜の、波打ち際の足跡のように瞬時にかき消されてしまい、誰がそこを歩いたのか、もはや知る手立てもなくなる。 一面に白い花が咲き誇る林檎畑が左手にある。安曇野の輝く春の澄んだ空気を肌で感じながら、林檎畑に沿って歩くセーラー服の三つ編みの少女がいた。そばかすのある頬が少し赤らんで、長い睫毛の下にある朝露のように潤った瞳の先に、一歩下がって歩いている学生服の少年がいる。 少年は林檎畑に広がる白い花に目をやった。林檎の花は少女のようでその色は純潔の白。 距離を置いて歩く二人の間には会話はなく、あるのは胸の内を悟り合っている一つの確信の蕾。 それがいつしか花開くのを予感しながらを気付かれまいと思う初々しさ息吹き。 林檎畑を過ぎたところで、若い二人の影は音もなく消え去った。 紗智子は懐かしむ。少女だった頃を。 十年ぶりに帰って来た故郷。三つ編みからショートカットにした少女は、いくらか大人びてはいるが、玄関で靴を勢いよく脱ぎ捨てて家の奥へと駆け込んで行く姿はまだまだ子供だ。 その、かつての自分の姿を目で追いながら、紗智子は呼び鈴を押した。 しばらくすると、弟の明が玄関に現れ、笑顔で姉を出迎えて、家の中に招き入れた。 その家は、紗智子が育った家ではない。十年前、明が建てた家だった。 紗智子が生まれ育った家は、既に地番も変わり、駐車場に利用されている。 区画整理された住宅地と、車が往来する道が新たにそこを取り囲んでいるはずだった。 紗智子が故郷を去ったその時から、そうなることはわかっていた。 そして明の家からたった数キロの距離だが、紗智子は、そこに足を運びたいとは思っていない。 居間には、さっきのショートカットの少女が、割烹着を着た親に、何事か熱心に話をしている。 その横に紗智子も腰を下ろした。 少女は、学生服の少年と林檎畑に沿って歩いていた時のように、頬を赤らめている。 母は、果物ナイフを、畑仕事でささくれだった手に持って、林檎の皮を剥きながら、娘が語る淡い恋心の発露に耳を傾けている。 紗智子も少女の声を聞いていた。 「姉さん。林檎食べるかい?」 明がこう声を掛けてきたのと同時に、少女と母親の姿が消え去った。 「ええ。いただくわ」 紗智子が返事をすると、明は台所に入って行った。 久しぶりに味わう、故郷の林檎の甘い蜜。 少女は、母が皮を剥いてくれた林檎にフォークを差すと、それを小さな口に持っていき、美味しそうに頬張った。 今も、天井のそばから微笑んでいる、母の写真。その隣には、ちょっぴり威厳を見せようと背伸びをしている、ありし日の父そのままの姿が、額の中にある。紗智子がセーラー服を着る前から、その中に納まっている。 紗智子は両親に小さく笑いかけると、再び少女の声が遠くのほうから聞こえてきた。 少女は艶のある黒髪を肩まで垂らして、その頬にはそばかすがなかった。 少女と呼ぶには相応しくない年頃だが、大人と呼ぶにはまだ早すぎる。 しかし、彼女は自分が大人だと信じて疑わず、大人になりたがっていた。 「勇輔君、東京へ行っちゃうらしいのよ」 少女でもない、大人でもない、ただ、安曇野の春のような、麗らかな瞳のその奥には濁りはない。 しかし、その声には梓川のせせらぎのような長閑さはなく、豪雨で川岸をえぐるほどの激流となった梓川の いななきに似ていた。 そのいななきは、林檎の皮を剥いてくれた頃よりも痩せさばらえた母に向けられていた。 「東京で働くんだって・・・。勇輔君、東京に行っちゃうんだって・・・」 思いの丈をぶちまけることが出来たのは、母だけだった。 潤んだ瞳の先にあった、病弱な母の姿は波打って見え、その娘の背中を、精一杯摩りながら、それでも力の入らない母の手は優しく、その偉大な慰めの神様にすがりたい気持ちは、昔も今も変わらない。 「ほら、姉さん。食べな」 林檎を載せた皿をテーブルの上に置くと、明は向かい側に腰を下ろしてテレビを点けた。 傍らで泣いていた彼女はフッと消えて、母の姿ももうない。 「ここに来るのは何年ぶりだい?」 明が尋ねた。 弟は昨年、紗智子が現在住んでいる大分県を訪れていたので、久しぶりの再会というほどでもなかったが、故郷に帰って来たのは十年ぶりだ。 十年前アメリカに移り住み、三年前に帰国して大分に居を構えたが、その間、巣立って永く故郷を省みなかったどころか、両親の墓参りさえしなかった。これ程の親不孝があろうか。 しかし、故郷の映像は紗智子の心に映し出され続け、決して途切れることはなかった。 紗智子はしばらくの間、明と話をしていたが、時折会話が中断すると、少女と母が現れて、東京へ働きに行く少年の話を始めた。 「勇輔君とこ行ってくる。さよならを言いに行かなくちゃ・・・」 彼女は母にそう言うと、家を出て行った。 本当は明の家ではなく、かつてあった家を、母の匂いがしたあの家を。駆け足で出て行った。 「散歩してくるわ」 紗智子がおもむろに立ち上がってこう言ったのと同時に、電話が鳴った。 明は紗智子に返事をすると、受話器を取った。買い物先から電話を寄越してきた明の妻からだった。 「姉さん、今夜、食べたい物あるかい?」 紗智子は玄関で靴を履きながら、 「奥さんにあまり気を使わないように言って」 と返答して外に出た。 少女の姿はなかったが行き先は思い出せる。そう、アイリスの花畑。 紗智子は、そこから梓川村の中心を南北に走る農免道路に向かって歩き出した。 その農免道路の手前に、二十万株ものアイリスの花が咲き誇る花畑があるはずだ。 二十年前のあの日、十八歳の紗智子はアイリスの花畑に向かって駆け出して行った。 夕日が空を彩り始める頃、それが地に長い影を落して、小さな里を包み込み始める頃、それはちょうど今と同じ頃、あの時、紗智子はただひたすら走った。 学生服姿であどけなかったあの少年は成長し、背も高くなり凛々しい顔立ちになっていて、その顔が夕日で赤らんでいるのを目にした少女は、息を切らして立ち止まり、喰いしばった歯から微かに漏れるのは悲しみの吐息、啜り泣きにも似た嘆きの歌だった。 その歌にあわせて音楽を奏でるように、盛んに咲き誇ったアイリスの、白や紫、黄色などのフリルのある花びらが風にそよいでいた。 毎日のように、紗智子は、夕日で顔が赤らむ勇輔の顔を、この場所で見ていた。 同じ時間に、二人は必ず花畑で待ち合わせをして、語らい合っていたからだ。 「さっき真二君から聞いたわ。東京へ行くんですって?」 紗智子は尋ねた。 「そうだよ。僕は働きに行かなければならない」 その声音は決然としていて力強かったが、それが悲しみの裏返しであることは、紗智子にはよくわかっていた。 「こんな田舎では働き口がないんだ。僕は、東京で頑張って働いて、仕送りするんだ。 父さんの残した借金もあるし、母さんのためにも、そうしなくちゃいけないんだ」 紗智子にも父親はいない。その点は勇輔と一緒だが、彼女には明という弟がいる。勇輔には親類も兄弟もない。 「わかってくれるね?」 「いつなの?いつ東京へ行くの?」 「明後日だ」 「どうして?なぜ教えてくれなかったの?」 「言おうと思ってたんだ。でも・・・言い出せなくて・・・」 土の匂いと、緑の風と、夕日の優しさが、俯く無言の二人を包み込み、アイリスの甘い花の香りは、別れの悲しみに打ちひしがれる紗智子と勇輔の、沈み込んだ感情を高め、その起伏の激しさを静めた。 紗智子は勇輔の手を取り、勇輔はそれに応えて指先に力を込め、再会を誓った。 「アイリスの花言葉って知ってる?」 夕日が二人を染めようとも、色とりどりのアイリスの花びらは、まるでそれを跳ね除けるかのように、鮮やかな色彩を浮き立たせていた。 「知らないよ。教えてくれ」 「うれしい便りとか消息という花言葉らしいの。 だから、私と勇輔君が、どんなに離れていても、このアイリスが、お互いの消息を知らせてくれるのよ」 花畑にあるビニールハウスの中にも、アイリスが植えられている。そこにある花はそれぞれ値段が付けられていて、販売されていることを二人は知っていた。 そこで紗智子は言った。 「勇輔君、東京へ行ったら、必ず便りを頂戴ね。そうしたら私、手紙とアイリスを、一緒に送るわ」 アイリスは二人の絆の象徴となり、勇輔にとってはまた、故郷の香りを、紗智子の手紙と共に、懐かしむことの出来るものとなるだろう。 二人は抱き合った。 それまでの成り行きを、アイリスの花畑を前にして見届けていた紗智子の頬には涙が伝っていた。 それから二日後に、勇輔は故郷を去った。その一週間後に手紙が来た。 「・・・先週から、トラックの運転手の仕事を始めた。朝から夜遅くまで、東京中を走り回ってる。仕事が出来るというのは、本当に幸せだよ」 紗智子は、白いアイリスを一本購入して、それに手紙を添えた。 「・・・体には気をつけてね。私は毎日勇輔君のことを考えています。いつか一緒になれればいいね」 紗智子は郵便局に通い続けた。勇輔からは頻繁に手紙が届いた。それまでに電話で一度話が出来たが、 空が白み始めたばかりの早朝から、日付の変わる時間まで働き続ける勇輔と、時間を合わせることは難しく、祝祭日も休めないような状態だった。 それでも、勇輔は、手紙だけは時間を見つけて書き続けていた。 「・・・アイリスが十本になった。枯れちゃったのもあるけど。僕は白いアイリスが好きだ。いつも学校の帰りに、紗智子と歩いていた、林檎畑の花も白かった。それに、僕にとって、白は君の色なんだ。だから、これからは白いアイリスを送ってくれ。この狭い部屋を、白いアイリスで一杯にしたい」 紗智子はその手紙を受け取って、うれしくてたまらなくなった。 その日から、花畑に行くと、ビニールハウスから白いアイリスだけを買うようになった。 それを、手紙を送る度に、勇輔に送った。 「・・・僕の部屋が、どれほど白いアイリスで一杯になったか、紗智子に見せたい。見て欲しいよ」 この言葉で締め括られた手紙が、最後となった。 紗智子が花畑から戻ったのは、もうどっぷりと日が暮れた時間だった。 弟の明は探しに行こうかと思っていたらしい。 「さあ姉さん。もう食事が出来てるから」 台所には明の妻がいた。紗智子は挨拶をして、居間で明と共に食事を進めた。 二階の階段を駆け下りてくる足音が聞こえてきたのはその頃で、それは母が娘を呼んだからだった。 母はその日、電話を取った。勇輔の母親からだった。 勇輔が、トラックで建築資材を運搬中、高速道路で事故に遭い、即死してしまったというのだ。 原因は、毎日遅くまで休みなく仕事をしていたせいで、過労で睡眠不足になり、それが運転に支障を来たしたのではないかという見解だった。 二階から駆け下りてきた娘は棒立ちになっていた。 「嘘だよね?お母さん、嘘だよね・・・?」 紗智子は、そのまま家を飛び出した。 「姉さん・・・。どうしたんだい?」 明が、箸を止めて玄関口を振り返っている紗智子を見て、思わずこう尋ねた。 紗智子は、明と、その隣に座っている彼の妻に苦笑して見せた。 「いいえ。ごめんなさいね。何でもないの」 勇輔の死の知らせのあった夜、家を飛び出した紗智子は、アイリスの花畑の前で、延々と泣き続けた。 灯りの乏しい、真っ暗な農道の端で、倒れて泣き崩れていた紗智子を見つけたのは、近所の村の人たちだった。 母は、数日間、無気力状態の娘を慰め続けたが、勇輔の死を、受け入れることが出来ずにいた。 それからしばらくして、勇輔の母親もこの世を去ってしまった。 明の家の、布団の中で、紗智子は当時を回想していた。長かったあの時間。全てを忘れ去ることが出来なかったあの頃。 そしてその数年後に、紗智子の母が死に、故郷に見切りをつけたいと強く願う自分がいることに気付いた。 もうここにはいたくない。 その思いの、きっかけとなった勇輔の死は、紗智子にとっては、拭い切れない、辛過ぎる過去の出来事だった。 紗智子は、その夜、再び、布団の中で泣いた。 朝になり、居間で明たちと朝食をとっていた紗智子は、表の騒々しい雰囲気に気付いた。 すると、紗智子は顔も名前も知らない近所の人が尋ねてきて、玄関口に出た明に、何かを言い伝えて去って行ったようだった。 「妙だな。姉さんも来るかい?」 明がこう言った。 「どうしたの?」 紗智子が尋ねると、明はこう言った。 「アイリスの花畑で何かあったらしいんだ」 紗智子は明の車に乗せてもらい、アイリスの花畑に向かった。そこへ行くまでの間、アイリスの花畑に向かう人たちが、何人も見受けられて、その数はかなりのものだった。 やがて二人は、村の人たちが野次馬のように集っている花畑に到着した。 紗智子は車から降りると、花畑を見た。 昨日まで、何色もの、色とりどりの花々が咲き誇っていたアイリスの花が、全て白に変わっていた。 「どういうこった」 と誰かが言ってた。 「さあな。こんなことは今まで聞いたことねえぞ」 と別の一人が言った。 花畑一面に広がる、二十万株の白いアイリスを見つめる紗智子の目から、涙が溢れ出した。 それは止め処もなく流れ続け、次第に、涙で何も見えなくなった。 ここにいる人たちも、私の知らない人たち。 故郷を去り、死んでいく人たちに代わって、新しい住民が、北アルプスの麓に安らぎを求めて吸い寄せられてくる。 回顧する故郷の思い出に、一切関わってこない彼らが、なぜこの土地を選んだのか私は知らない。 いつしか彼らが、この土地を、この故郷を懐かしむ時が訪れるとすれば、その時にはもう私はいないだろう。 梓川村で長い年月を過ごした私の存在は、砂浜の、波打ち際の足跡のように瞬時にかき消されてしまい、誰がそこを歩いたのか、もはや知る手立てもなくなる。 でも・・・。 それでもいい。 なぜなら、私は、こんなにうれしい便りを、受け取ることが出来たのだから。 戻る HOME |
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