ま ぼ ろ し
白山奈美が幻覚に悩まされるようになったのは、妊娠してから四ヵ月目のことだった。 大学時代の同級生だった恋人の雅行とは五年間付き合い結婚、二人の新生活を始めてから半年後に、妊娠した。 経過は順調だったが、妊娠後もアパレルメーカーの事務員として働いていた奈美は、心身共に、少しずつストレスを抱え始めていた。夫の雅行は、妻の健康を心配して、すぐに仕事を辞めた方が良いと言ってくれたが、なかなかそうもいかなかった。 妊娠が判明してすぐ、奈美は直属の上司に妊娠したことを告げたが、代替の社員がおらず、会社の受け皿が整っていないのでもうしばらく働いて欲しいと言われた。 妊娠するまでは、毎日が殆ど残業続きであったので 労働基準法や社内規定を調べた奈美は、妊産婦が請求すれば、時間外労働や休日労働をさせてはいけないとあるのを知り、早速上司に申請した。 ところが、そうも言ってはいられなかった。長時間仕事をすると、腹の張りを常に感じるようになる。 病院へ行った時に、医師からは、お腹が張ったら安静にした方がいいと言われていたが、山のような仕事をほったらかして、腹が張るたびに休んでいるわけにもいかない。 仕方なく、ほぼ毎日、午後の十時まで残業をしていた。 「大丈夫かい?もう仕事は辞めたらどうだ」 と労う夫の言葉も、疲労困憊した状態で帰宅する妻の耳には入らない。 奈美は家に帰るなり、雅行の用意してくれた食事もそこそこに、すぐに布団に入って寝てしまう。 そして次の朝八時には出勤し、夜の十時まで働く。そんな毎日が、ずるずると続いていた。 そうして妊娠四ヶ月目を迎えた水曜日の朝、奈美はいつもより体調が思わしくないのを感じた。 体が異常にだるく、頭も鉛のように重い。雅行は心配して会社に電話を入れようとしたが、その日は月末だったこともあり、どうしても休むわけにはいかないと奈美は断った。 「多分、しばらくすればよくなるわ。大丈夫よ」 先に出勤する夫を玄関で見送った奈美の顔は青白く、とても大丈夫と言えるようなものではなかった。 「君は責任感が強すぎるんだよ。今日ぐらいは休んだほうがいいんじゃないか?」 雅行は家を出るまでこう言い続けたが、奈美は首を縦に振らなかった。 奈美は、それからいつも通り、八時に家を出た。 スーツを着ているが、やはり近頃はお腹の辺りが張っているようで落ち着かない。ズボンもきつくなってきた。 しかしこの日の朝は、そんな心配をしていられないほど、体調が悪かった。 駅に到着すると、めまいがしたので、ホームのベンチに座って一旦休んだ。 電車は下り線なので人もまばらだ。満員電車でないのは唯一の救いだった。 六つ目の駅を降り、改札を出て、しばらくまだ閑散としている駅前の商店街を歩く。 そこを過ぎると国道に出た。道路を渡るために信号を待った。 すると、まためまいが奈美を襲った。こめかみに指先を当てて揉みほぐし、何とか緩和させようとするも、その痛みはますます奈美を蝕んだ。 「・・・痛い・・・」 周囲には誰もいなかった。奈美はその場にうずくまった。 国道を、都心に向かって走り去って行く車の音が、奈美の頭に響き渡って、その痛みは広がるばかりだった。 「・・・痛い・・・」 その時信号が変わった。車が停まり、その気配に気付いた奈美は、苦痛に顔を歪めながら、ふと前を見た。 そこは公園の中だった。 「えっ?」 こめかみに当てていた指をゆっくりと離し、辺りを見回した。 間違いなく、奈美は、公園にいた。見上げると空は闇で、くり抜いたような月がぽっかりと浮んでいる。 時折烏の声が、何処からともなく聞こえてきて、奈美を震え上がらせた。 「・・・なぜ?何なの・・・?」 これはきっと幻覚に違いない、頭痛のせいでどうにかなってしまったのではないかと思った。 しかし、その思いはすぐに打ち消された。 ひんやりとした冷たい空気に吐く息は白く、奈美の肌をかすめた微風はブランコを揺らし不気味な金属音を立て、公園を取り巻くように生い茂る草の匂いが鼻を突いた。 そして、烏のけたたましい鳴き声・・・。 どれも幻覚とは言い難かった。 その時、公園の入り口から、誰かが入ってきたのに気付いた。 背が高く、黒髪は肩に触れる程度の長さで、白いコートの襟を立てた、二十代と思しき若い女だった。 年齢は奈美とほぼ変わらないように思われたが、暗いので顔がよく見えない。 奈美は、彼女に歩み寄って、声を掛けたい衝動に駆られた。 あの国道で信号待ちをしている時に、めまいを起こして倒れてしまったのだろうか。 もしそうであるなら、早く目を覚ましたい。 もしそうでないなら・・・ここは何処? 「・・・あの・・・」 奈美は女に声を掛けた。 ところが、その声が耳に入らないのか、女は奈美に一瞥を投げかけることもせず、そのまま歩き去ってしまった。 「・・・あの」 奈美は執拗に、女の背後から声を掛け続けた。すると、女は急に立ち止まって後ろを振り返った。 「何するのよ」 女は言った。 奈美はその言葉の真意が読み取れず、女をただ呆然と見つめる他なかった。 ところが、その言葉は、奈美に対して、言い放ったのでないことがわかった。 黒い帽子を目深に被り、マスクをした男が、奈美の背後から飛び出してきて、女に襲い掛かったからである。 奈美は驚いて足が竦んでしまい、全く動けなかった。 帽子の男は、女を地面に押し倒し、服を脱がしにかかった。 激しく抵抗する女の爪が、男の顔を何度も引っ掻いたが、その手を抑え付けられると、女は絶叫して両脚をばたつかせた。 白いコートが泥だらけで真っ黒になり、それを無理矢理脱がされた女は、ありったけの力で男を引き離そうともがき続けた。 あまりの恐怖で体中が震え出してしまった奈美は、金縛りのように体をぴくりとも動かすことができなかった。 男は、叫び続ける女の髪を鷲掴みにし、その頭を何度も地面に打ち付けると、静まり返った公園にゴンゴンという音が響き渡った。 力を振り絞り抵抗していた女の手は、ぐったりと地面に落ち、やがて全く動かなくなった。 男は、警戒して公園をぐるりと見回した。 目が合った。帽子の陰になっていたが、その目は、貪欲な、異様な光を放っていた。 その目は明らかに奈美を捉えたように思えた。 彼女は逃げ出そうとしたが、体が動かない。その震える手は、無意識に腹に触れた。 ところが男は、奈美がまるでそこに存在していないかのように、再び公園を見渡した後、女の両脚を持って草陰に引きずっていき、バッグから財布を抜き取った後、公園を走り去ってしまった。 奈美は混乱していた。 小刻みに震えている脚が動いて、やっとの思いで踏み出すことが出来ると、草陰で倒れている女のそばまで歩み寄ったが、彼女は既に死んでいた。 奈美は、恐怖に歪んだ女の死に顔を見た。早く誰かに知らせなければと思った。 そして急いで公園を出ようと駆け出した瞬間、眩しい陽光が突然視界を遮って、思わず目を瞬いた。 はっと我に返って辺りを見回すと、目の前には国道があった。 信号が青から赤に変わり、やがて停車していた車が次々に走り出す。奈美はその光景を目にして、ただ驚くしかなかった。 「どうかなさいましたか?」 うずくまっていた奈美に、見知らぬ婦人が声を掛けてきた。 視点の定まっていない空ろな顔を婦人に向けて、聞き取れないほどの小声で何やら呟くと、力なく立ち上がった。 そして再び信号が青に変わると、婦人はちらちらと振り返りながら横断歩道を渡って行ったが、奈美はしばらく、その場に立ち竦んでいた。 その夜、奈美は仕事から帰宅しても、夫の雅行には、あの恐ろしい幻覚のことは一切話さなかった。 一体あれは何だったのだろうか。どうしてしまったというのだろうか。 雅行が作ってくれた食事に全く手を付けないまま、体調が悪いと告げて、二階の寝室で横になった。 雅行は、そんな妻の姿を見て、心底心配した。 「頼むよ。明日は仕事を休んでくれ」 雅行は、ベッドに横になりながら、呆然と天井を見上げている奈美にこう言った。その声は哀願に近かった。 しかし、新妻は、夫に優しく笑いかけると、大丈夫よ、とだけ言った。 次の日の朝、奈美は、公園で女の絞殺死体が発見されたというニュースがテレビで報じられたのを目にした時、愕然となった。 「どうした?」 雅行は、箸の動きを止めて、テレビを食い入るように見つめる奈美の様子に気付いた。 横浜市中区の住宅街にある小さな公園で、若い女の絞殺死体が発見されたというニュースだった。 被害者の女の顔が映し出しされた。髪の長さは肩にかかる程度で、ややふっくらしているように見える。 年齢は二十七歳。彼女は会社への行き帰りにはいつもその公園を通っていて、昨夜十一時頃殺されたという。 争った形跡があり、バッグから財布が抜き取られ、着衣も乱れていた。 雅行の怪訝そうな視線に気付いた奈美は、再び箸を動かして、何事もなかったかのように食事を口に運び始めたが、食欲はとっくに消え失せていた。 こんなことがあるわけがない。あの女性の顔だって、暗かったとはいえ、少し違うように思える。 それに、さっき映った事件現場の公園だって、私がいたところよりも広いように感じた。 でも、あの時は夜だった。テレビに映ったのは、朝の明るい空の下に広がる公園の景観。違う場所に見えたのかもしれない。 いいえ、そんな馬鹿なことがあるわけがない。絶対あり得ない。 「奈美・・・僕はもう行くよ」 遅々として進まない食事を前に、ただテレビを眺めている奈美に向かって雅行が言った。 「ごめんなさい。ちょっと疲れちゃってるみたい」 奈美はごまかそうとして、明るい声音でこう言ったが、立ち上がりかけた足元がおぼつかない。 雅行を玄関まで送った後、出勤の用意をしながら、チャンネルを変えて、他のニュース番組でも事件を伝えていないか、こまめにチェックした。 どの番組も伝えている内容は同じだった。 「・・・目撃者なし・・・」 奈美は一人呟いた。 自分はどうするべきなのか、何をするべきなのか、全くわからない。 八時になると、テレビを消して家を出たが、頭の中は混乱していて落ち着かなかった。 気持ちが落ち着かなくなると、彼女は決まって、お腹に手を当てる。まだ見ぬ我が子。そうしていると、自然と気持ちが和んでくる。 しかし、駅までの道のりをまだ半分も過ぎていない場所で、奈美はまたもや頭痛に襲われた。 人の目に付きにくい建物の陰に入って、思わず座り込んだ。 昨日の朝の痛みよりも酷かった。眉間に皺を寄せ、苦悶の声を漏らした。頭を抱える両手にも力が入らない。 「・・・ああ、もう駄目・・・痛い・・・」 奈美は、今日は会社に行って仕事をするのは無理だと感じ、病院へ行って診察してもらおうしかないと思った。 そこで痛みに堪えながらも、会社に連絡しようと、バッグから携帯電話を取り出した。 電話帳に登録されている番号を探して、すぐにかけた。ところが、電話が繋がらない。 「やだ。どうしたの・・・」 奈美は何度もかけ直したが、何の音も聞こえてはこない。 そこで、ふと、周りを見渡した。 夕陽が辺りを照らしている。 そして奈美は、細い路地の陰にうずくまっていた。 烏の鳴き声が聞こえた・・・。 奈美は路地を走り抜けた。その先には、周囲を柵で取り囲んだ更地があった。 雑草が生い茂っているだけのだだっ広い土地だったが、工事用の重機が一台置かれている。 その更地の向こうには、真新しい大きなマンションが何棟も建っていた。 奈美は、その光景をただ呆然と眺めていた。 これもきっと幻覚に違いない。きっとそうに決まっている。 「やめて!」 背後で声がした。 奈美が振り返ると、その細い路地の向こう側から、若い女が入ってきた。 女は何かにつまずいて、前のめりに倒れたが、それでも必死に地面に這いつくばりながら、両手をもがくようにして前に進んだ。 その女の背後に、あの男が現れた。 黒い帽子を被った男。マスクの上には、異様な光を放った男の目が、獲物を追う貪欲な獣のように、かっと見開かれている。 それは逃げる女を嘲笑っているかのようにも見えた。 奈美は強張った体を震わせては、棒立ちになったままその光景を眺めているしかなかった。 うつ伏せのまま、這いつくばって逃げる女の背中に、帽子の男が飛び掛った。男は、女の細い首に手をかけ、それを何度も上下に揺さぶっては、グイグイと締め上げた。女の頭は、固いコンクリートの地面を何度も激しく打って、おびただしい血が額から流れ始めた。 死んだ女を仰向けにすると、男は衣服を剥ぎ取り始めた。 奈美は、恐怖で顔を引き攣らせながらも、震えの止まらない足を少しずつ踏み出しては、男に近付いて行った。 ゆっくりと、一歩一歩、警戒しながら、男に歩み寄る奈美の息は荒くなっていた。 すると、男が突然顔を上げた。 「誰だ!」 奈美は、男の目を見た。それは間違いなく奈美を捉えていた。 しかし、男は、何事もなかったかのように、しばらくすると、死んだ女の持ち物をぶちまけ始めた。 その時、急に辺りが眩しくなった。 何も見えなくなったと思った瞬間、彼女の手から携帯電話が落ちた。 「・・・もしもし・・・」 そこから、会社の上司の声が漏れていた。 奈美は建物の陰にうずくまっていた。元々彼女がいた場所だ。 「・・・もしもし・・・」 朦朧としながらも電話を取った。 「あの・・・白山奈美です・・・」 奈美は、体調が思わしくないので、会社を休みたい旨を伝えたが、その声は震えていて、殆ど聞き取れなかった。 病院で診察を受けた奈美は、担当医に、あの恐ろしい幻覚のことは何一つ話さなかった、突然激しい頭痛に襲われて、一時的な発作やめまいが起こるという症状を伝えた。 「マタニティブルーというやつですよ」 と若い医師は快活に告げた。 「出産後に起こることが多いのですが、出産前にも、ホルモン変動の影響によって、軽うつ状態になることがあります。症状は人によって様々ですが、白山さんの場合は、精神的に不安定になっているんでしょう。涙もろくなったり、些細なことで苛立ったりしませんか?」 奈美は心当たりがなかったが、否定もしなかった。 「無気力になって、突然意味もなく不安になったりするものです。一時的なもので、ずっと続くわけではありませんから、安心して下さい。ご主人にはちゃんと話されましたか?」 「・・・いえ、まだです」 「ちゃんと話された方がいいですよ。よくご主人と相談されて下さい。その上で、メンタルケアをお受けになられることをお薦めします」 病院を後にした奈美は、やはりあの幻覚のことをすっかり話すべきだったかと後悔した。 いえ・・・話したとしても、きっと同じ事を言われるだけだ。誰があんな話を理解できるというの? 奈美はそう思った。 そしてそのまま自宅に戻ろうとしたが、踵を返して駅の方に歩き始めた。 やがて電車に乗って彼女が向かった先は、横浜だった。 奈美は、この目でしっかり確認しておきたいと思った。 自分が見た、あの凄惨な光景が、間違いなくあの公園で起きたものであったのかどうか、確かめたかったのである。 朝、ニュースで流れた、あの公園。 そして自分がいた、あの夜の公園。 私はあの事件の、唯一の目撃者だったのだろうか。実際この目で見るまでは、とても信用できない。 奈美はそう強く心の中で呟きながら、一時間半後には、あの、朝テレビの画面で見た、公園の近くまでやって来た。 テレビ局の車が一台、道路脇に停まっていて、カメラマンなどが数人、辺りをウロウロしている他は、意外にもひっそりとしていて、人影は殆ど見られなかった。 奈美は、やや離れた場所から、その事件現場となった公園を眺めていた。 違う・・・。 奈美はすぐに、そこが、あの幻の中で見た公園とは違う場所であることを見抜いた。 やはり広すぎる。その上、周囲の景観があまりにも違った。 奈美は、一気に肩の力が抜け落ちていくのを感じた。 しかし、だとすると、あの幻は一体何・・・? その答えは、いくら自分自身に問いかけてみても返ってくるわけもなかった。 そんな悶々とした気持ちを抱えながら、横浜から自宅に辿り着くと、彼女は早速、テレビを付けて、今朝、目撃した、あの帽子の男の、第二の殺害が、もしかするとニュース番組の中で伝えられはしないかと釘付けになっていたが、その日は一切、そんな事件が起こったことを知らせるものは、何もなかった。 その夜、奈美は雅行に、会社を休んで病院へ行ったことを話し、医師から告げられた症状を詳らかに説明した。 雅行は心配して、明日からはもう仕事を休むようにと言った。 「君から言い出しにくいんだったら、僕から電話をしてあげてもいいよ。君の体を大切にすることは、何よりこの子を大切にしてあげることでもあるんだからね」 と言って、雅行は奈美のお腹を擦った。 何よりも夫の励ましはうれしいものだったか、まだ心には大きなしこりを残している。 あのことを話すべきかどうか、奈美は思い悩んだ。 夫が風呂に入っている間、奈美はまたテレビのニュース番組を見ていた。 だが一向に事件は報道されない。ということはやはり、あれは単なる幻に過ぎなかったのだろうか。 それにしては、あまりにも・・・・。 「うっ・・・」 奈美は頭を抱えて、テーブルの上にうつ伏せになった。 激しい頭痛に襲われたのだ。 夫がシャワーを浴びている、その音が微かに遠のいていくのがわかった。 私を一人にしないで。 夫に助けを求めようと立ち上がり、壁に身をもたせ掛けながら、バスルームに向かった。 意識が遠のいていくような感覚に襲われながらも、必死に壁伝いに歩く。 そして、咽喉の奥から絞り出すように叫んだ。 「あなた・・・助けて・・・」 その言葉を発した刹那、奈美は前のめりに倒れてしまった。 またあの帽子の男が来る。あの憎悪に満ちた目を不気味に光らせた、あの男がまた・・・。 奈美は、キッチンの向こうの、バスルームにいるはずの、夫に向かって、再び助けを求めようと、口を開きかけた。 その時、壁に掛かったカレンダーが目に入った。 いつもはそこに、何も掛かっていないはずの壁に、見覚えのないカレンダーがあった。 奈美はよろめきながらも立ち上がって、それに目を凝らした。 二〇三〇年五月・・・。 「・・・どういうこと・・・」 奈美は、改めて家の中を見渡した。 間違いない。ここは私の家。ここにキッチンがあって、夫が今いるはずのバスルームはそこ・・・。 そしてそこは居間で、その向かい側に階段があって・・・。 でも、待って・・・こんなに古めかしいわけがない。 その時、突然玄関のドアが開いた。 奈美は視線を移した。 年老いた夫婦らしき男女が、玄関から家の中に入って来るのを見た。 その背後には、三十代と思しき男が一人いた。 「母さん、腹減ったよ。飯作ってくれ」 男が年老いた女に言った。 奈美は、年老いた女の顔を見た。そして、年老いた男の顔も、その目ではっきりと見た。 その二人が、明らかに、奈美と雅行であることを、彼女は知った。 そして二人の背後にくっついて、玄関から家に入って来たあの男、「母さん」と私に話しかけた男の、あの目・・・あの声は・・・。 「おい、奈美。どうしたんだ」 キッチンでうずくまって震えていた妻を、雅行は強く揺さぶって声を掛けた。 「おい。どうしたんだ?おい」 奈美は、シャワーを浴びたばかりの夫が、そばにいることに気付いた。 雅行は奈美を宥めようとして、手を伸ばしたが、彼女はそれを拒むと、立ち上がってこう言った。 「ごめんなさいあなた」 彼女の目には涙が溢れていた。 奈美は流し台の上から包丁を手に取ると、それを自分の腹に向かって突き刺した。 戻る HOME |
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