m 隣 人 人間の心の闇というものは、容易に推し量れるものではない。 迂闊にそこへ足を踏み入れようものなら、ひと思いに八つ裂きにされるだろう。 私は激しく打ちのめされた。 そして、私は見た。 あの信じ難い出来事を回想する度に、私は激しく動揺して、心はひどく痛み、それが永遠に続くのではないかと思えるほどである。 あれからもう三年の月日が流れようとしている。 三年前、私は三十歳を迎えたばかりだった。 勤続十年を迎えた名古屋にある製紙会社の本社から、その数ヶ月前に通達を受けていた東京支店への転勤のため、当時、勤務先で知り合って二年、結婚してまだ一年も経っていなかった妻と共に、既に購入していた東京郊外の新居に引っ越した。 周囲が緑に囲まれた閑静な住宅地。そこが私たち夫婦の新天地だった。 妻の美津子にとって、私との結婚は再婚だった。 美津子が、私のいる会社に入社してきたのは二年前だが、先夫は、前勤務先の印刷会社の同僚だった。 ところが、ある日忽然と失踪してしまったというのである。結婚後僅か半年での出来事だったらしい。 私がその話を初めて聞いたのは、付き合い始めてまだ間もない頃だった。 幸せな新婚生活のはずであったのに、何が先夫をそこまで突き動かしたのか、全く見当もつかなかったそうである。 美津子の心労はかなりのものであったようで、前触れもなく姿を眩ました夫を、警察にも協力を求めて捜索を続けたらしいのだが、一向に見つからなかったという。 その間に、家庭裁判所に失踪宣告の申立てをして、それが結局、失踪から七年が経過し期間満了となったため、先夫が死亡とみなされたのが、私と結婚する直前のことだった。 付き合い始めの頃は、美津子は私に対して、常に明るく振舞おうと努力していたようだったが、実際には彼女の心の傷はまだ完全には癒されていないのだということを、言葉の端々からでもうかがえるほどだった。 こうして私たちの距離感は急激に狭まっていったのである。私の、美津子への慰めの言葉は、彼女の中で昇華され愛情となり、徐々に先夫の存在を脳裏から振り払っていくことが出来たようだった。 そしてその幻影は、二度と美津子の前に姿を現さなかった。 一方で、私のほうは初婚だった。 しかし美津子と知り合った頃、私には同期入社の恋人がいた。 ところがもうお互いに冷え切った時期でもあったので、別れ際に私が一方的に責められることもなく、私も彼女も、あっさりと見切りをつけて別れたのだった。 こうして、私たちは二年間愛を育み、その後結婚して一年経った頃、東京へとやって来たわけである。 転勤後の仕事始めはちょうど年始にあたり、年が明けると、その後の数週間は殆ど休みなく働いた。 私は毎日、日付が変わる時刻に帰宅する忙しさで、引越しのために伴う煩わしい一切の雑務を、会社を退職し主婦業に専念し始めた美津子に任せっきりだった。 しかし転居後ひと月以上もすると、ようやく美津子も自分の時間が作れるようになった。 私もその時期には、転勤後初めて日曜日に休みが取れるようになり、趣味の川釣りやゴルフを控える代わりに、それまで一緒に妻との休みを過ごせなかった時間を取り戻すかのように、しばらくは夫婦だけの余暇を楽しんだ。 こうして、新生活が軌道に乗り始めたのだった。私たちは、平凡だが充実した毎日を送っていた。 その年の、冬も終わりに近付こうとしていた、ある日曜日の夕方のことだった。 車で都心へ買い物に出掛け、やがて帰宅した私たち夫婦は、居間で一緒にテレビを観ながら食事を終えると、 妻は先に風呂に入り、私は趣味に費やせる僅かな時間を楽しもうと二階の書斎に篭った。 これも、いつもと変わらぬ休日の日課だった。 買ったばかりでまだ未使用の釣竿を眺めては、一人悦に入り、春先に会社の部下を引き連れて行くことになっていた渓流釣りのことを思い浮かべては、子供のように昂揚した気分になっていた。 また、顧客との付き合いも本格的に増えていこうとしていた時期である。 先々は夫婦で出掛ける機会が極端に減ってしまうかもしれないと、私はそれを危惧していて、少し複雑な心境になっていたのを思い出すが、そういった理由から、今のうちに妻を何処へでも連れて行ってあげようと考えていた。 美津子はひじょうに理解力のある女だった。結婚当初から、仕事上での付き合いによって、貴重な休日を返上しなければならない事態があろうとも、少しも愚痴をこぼしたことがなかった。 そのお陰で、私は心置きなく仕事に没頭することができたのだが、しかし、懸念されることがひとつだけあったのだ。 私は、書斎で新しい釣り竿の感触を手で確かめながら、妻はこの新天地での近所付き合いは上手くいっているのだろうかと、ふと気に掛かったのである。 というのも、それにはわけがあった。 結婚前の数ヶ月程、私は本社のある名古屋の社宅を出て、妻のいる借家に一緒に住んでいたことがあるのだが、その隣家に、とても風変わりな六十代の未亡人が住んでいた。 あれは真夏の頃だったろうか。未亡人が身に着けていた染みだらけの青い半袖シャツが、いまだに目に焼き付いている。 美津子が先に会社から帰宅して食事の用意をしていた夜の八時頃、婦人は突然、ドアを蹴破らんばかりの勢いで家に入ってくるなり、大事に飼っていたオウムを盗んだのではないかと、言い掛かりをつけてきたのである。私の居ぬ間に家に上がり込んだ婦人は、美津子に平手打ちをするなどして暴力をふるったらしいのだが、この一件は、この婦人がのちに謝罪してきたことで一応の解決をみた。 が、それでも尚納得がいかなかったのか、近所に私たちの陰口を触れ回ったばかりか、証拠もないのに盗人扱いまでした。 東京へ転勤してからというもの、殆ど自宅と勤務先とを往復するだけの毎日で、率先して近所付き合いをする時間もなかった私は、名古屋の時もそうだったのだが、近隣のことを全く知らずにいたのだった。 そして東京に移り住んでからも、私自身、二度ほど気にかかったことがあった。 一度目は、引っ越してふた月程経った頃のことだ。早朝、隣家の五十がらみの女性が、生垣の手入れをしていた。私は出勤するために表に出て、清々しい朝の空気を胸一杯に吸い込み、車のあるガレージへと足を運ぼうとした直後、彼女の存在に気付いて挨拶をしたのである。 ところが、この五十がらみの、小柄で痩せ細った婦人は、私を睨み付けた。 それ以外何の反応も示さず、その後も生垣の手入れを続けるだけで、無視をしたのである。 その次は、それからほぼ二週間後の夜のことで、車で会社から帰宅した時、白髪の中年の男が、私の家の前に立ち、まるで私たち夫婦の名前を確認するかのように、表札に顔を近付けて、それをじっと見ていたのである。 白髪の男は、私の運転する車が徐行しながら近付いてくることに気付くや否や、素知らぬ振りをして、何事もなかったかのように、その場を離れ隣家に戻って行った。 私を睨んだあの痩せ細った女の夫であったろうか。 私は、書斎で釣り竿の手入れをしながら、そんなことをあれこれと回想していたのだった。 どうやら私は、それがどんな理由であれ、隣人との関わり合いがうまくいかない星の下に生まれたらしい。 なぜなら、私が生まれ育った名古屋の実家の隣人も、近所付き合いを極端に避けていた家族で、私は一人として顔を思い出せないほどなのだから。 そんなことまであれこれと考えながら、私は釣り竿を傍らに置いて、少し空気を入れ替えようと、書斎の窓を開け、夜の静かな住宅街を眺めた。 街灯の柔らかい灯りだけが頼りの、暗く寂しい時間帯だった。 そこでふと、書斎の窓から、ちょうど目の前に位置する隣家に目をやった。 門扉の両側に、立派な袖を設けた屋根付の和風門は、厳かな雰囲気を漂わせている。 岩組みの土留めに生垣をしつらえた風格ある門周り、縁側の前に広がる中庭、そして旧家特有の、歴史の重みを感じさせる、由緒ある佇まいの、瓦葺屋根の日本家屋がそこにあった。 狭小敷地に建つ鳴海家の、つまり我が家の新築マイ・ホームは、目の前にしている豪壮な雰囲気の隣家と比較すると、明らかに見劣りした。 そうしてしばらく眺めていると、隣家の中庭に、一人の女が出て来たのが目に入った。 見たところ二十代と思しき女で、中庭に立つと、しばらくは我が家の玄関のほうをじっと見ていたのだが、その視線はやがてゆっくりと上がっていき、ピタリと止まった。その視線の先には私がいたのだ。 私は急に寒気をおぼえた。女は中背だがひどく痩せていて、その顔は明らかに挑みかかるような表情を浮かべていた。 遠景にあるものをはっきりと捉えようとする時のように、目を細めて、それは私に、身に憶えのないやましさを感じさせるほどだった。 女はそれを見破って引っ掴んでやるとでもいうように、挑戦的で、威嚇するような鋭い目つきで私を凝視していた。 私はたまらなくなって、勢いよく窓を閉めた。そして書斎の電気を消して、一階に降り、とっくに風呂から上がって居間でテレビを観ている妻のところに行った。 「なあ美津子。隣は何ていう人だったかな」 私は出来る限り平静を装って尋ねた。 「柏木さんよ。どうしたの?」 「いや、別にこれといって特にないんだが。ただ、ふと、思い出したんでね。 それと、引っ越しの挨拶回りの時、かなり高齢の老人が出てきたけど、三世帯で住んでるのかな」 「そうよ。お爺さんと息子さん夫婦と、それに・・・そうそう、新婚のお孫さん夫婦」 美津子は指を一本ずつ折り曲げて数えてみせた。 「だから五人ね。でもどうしたの急に。何か気になることでもあったの?」 「いや、たまには隣人のことを知っておかないといけないと思って。だって僕は隣人のことは何ひとつ知らないんだもの」 しかし私は、その日の就寝時に、あれこれと要らぬことを考えてしまって、なかなか寝付けなかった。 隣人といえば、あの名古屋で味わった苦い経験もあり、私の留守中に、美津子がまた嫌な思いをしないかどうか、そのことだけが心配だったのである。 しかしその心配は、やがて毎日の仕事の忙しさに振り回されている内に吹っ飛んでいき、いつのまにか、 記憶の片隅に追いやられたのだった。 冬が過ぎ、間もなく春となった、ある月曜日のことである。 あの日、仕事から帰宅したのは午後十時を過ぎた頃だった。 そしてこれはいつものことだったが、私を笑顔で迎えてくれた妻はキッチンに入り食事の支度、私は二階の書斎に入り、食事が出来るまで読書をしていた。 その時、何気なく空気を入れ替えようと窓を開けると、隣家の女と目が合った。それはあの日、中庭に立っていた、二十代の痩せこけた女だった。しかしこの日は、女は中庭ではなく縁側に立っていた。 私は、窓を閉めるべきか否か躊躇したのだが、何も臆することはないと自分に言い聞かせ、何食わぬ顔でそっぽを向き、住宅街の遥か遠方を眺めた。それでもやはり女の存在が気になっていたので、窓を閉める間際にチラっと一瞥したのだが、その時、女の横に、年配の白髪の男が立っているのがわかった。二人は私の方を見上げながら、しきりに何事かを話し合っているようだったが、その雰囲気から、何か良からぬことに違いないと容易に推察することが出来たほどだ。 思い当たる節などないが、それにしても気味が悪かった。 私は気に掛けながらも、窓をゆっくりと閉めて、やがて階下に降りた。 この時、私は堪えきれずに、隣人のことを美津子に告げようと心に決め、キッチンに立って忙しなく調理している彼女の傍らで、それまで気に掛けていた一切合切を話した。 しかし、美津子は笑顔を浮かべるばかりで気に掛ける様子が微塵もない。 「気のせいよ。あなた、ちょっとお疲れ気味なんじゃない?」 彼女は私の額に手を触れた。 「・・・熱はないわね。だとすると原因は何かしら?」 「やめてくれよ。冗談でもなんでもないんだ。借家の隣にいた未亡人のことは覚えてるだろう?」 「ええ、憶えてるわ。あまり思い出したくないけど」 「僕が書斎の窓を開けて外を見る時、彼らがこっちを覗いているんだ。これが二回あった。ねえ、昼間は何もないか?僕の留守中に、何か気になるようなことはなかったかい?」 フライパンの上の豚肉が、微かに立ち昇る煙と共に、空腹感を覚えさせる匂いを漂わせていた。 美津子はそれを裏返しながら首を大きく振った。 「そんなこと全くないわよ。確かに、あまり人付き合いを好まないみたいだけど、でもそんなに変わった人たちとは思えないし」 「本当にそう思うか?」 「あなたの勘違いよ。何か反感を買うようなことをした憶えもないんでしょう?」 私には心当たりがない。思い当たる節が何もなかった。 美津子は、話を聞いてくれてはいたが、私の思い違いだと言って譲らなかった。 その時ばかりは、私も些か大袈裟だったかもしれないと考え始めていた。 ひょっとすると、隣人は私たちの新居を眺めながら、あの屋根が変だ、あそこの設計がおかしいなどと、どうでもいいことをただ喋って話題にしているだけなのだろうか。 しかし、やがて運ばれてきた美津子の手料理を口にしながら、どこか陰気臭さを感じる隣人の、これまでの私への対応は、どう考えても納得出来かねると思った。 心ここにあらずの顔をしていたのであろうか。私の顔を覗き見るなり、美津子は眼前で手を振ってみせて「何一人で考えてるのよ」とやや不満気に呟く。 「まだ考えてるの?」 「いや・・・うん、まあ・・・本当のことを言えばね」 「大丈夫よ。きっとあなたの思い過ごしだわ。そのうち忘れるわよ」 美津子の一言が私を安心させてくれたが、その日の夜も結局、一人で悶々としてしまい、寝付くのがかなり遅くなってしまった。 それから三日後の、あの日がやってきた。 それは、朝から私に何か良からぬ予兆を感じさせるには充分の、常軌を逸した隣人の行動・・・私がガレージから車を出して、隣家を通り過ぎざま、白髪の男が腕を振り上げた姿を目の端で捉え、直後に「ベチャッ」という音が車内に聞こえた、あの、わだかまっていた不安が現実となった瞬間から、漆黒の闇はみるみる天蓋を広げ、既に私を覆い隠そうとしていたに違いなかった。 私は途中脇道に逸れた。そして車を停めて車外に出て、この目で確認した。 左側の後部ドアに生卵がぶつけられていた。 怒りを抑制しようにも、どうにもならなかった。一人怒声を張り上げ、足元にあった石ころを蹴飛ばし、隣家のある方角を睨み付けた。 この時、私があと十歳若ければ、我慢しきれずにそのまま車を走らせて、怒鳴り込んで暴れていたに違いない。 しかし、私はそうはしなかった。 怒りを静めるには多少時間がかかったが、もう一度、この出来事を落ち着いて考えてみようと、自分に言い聞かせたのである。 そこにはきっと、私たち夫婦では気付かなかった、何か理由があるはずだ。そうでなければ、ここまでする人間などいやしない。 しかし・・・もしも・・・もしも何も理由がなかったとしたら。 私は、その時ふと何気なく腕時計に目をやり、そろそろ出発しなければ会社に間に合わないことに気付いたので、とりあえず雑巾で汚れを拭き取り、かなり気持ちも動揺したまま、ハンドルを握って勤務先に向った。 結局、その日は、仕事をしていても一日中落ち着かなかった。 昼時に自宅へ電話すると、いつもと変わらぬ妻の陽気な声が携帯電話の向こうから聞こえてきて、少し私を安堵させた。 「どうしたの?こんな時間に電話してくるなんて珍しいわね」 美津子はちょうど、庭の手入れを終えたところだったらしい。 「実はね・・・」 と、朝のことをつぶさに伝えようとしたが、私のいない間に不安にさせてはいけないと思い、 「ちょっと今日も遅くなるかもしれないから、また野球を録画しておいてくれないかな」 「わかったわ。ちゃんとやっておく。あまり無理しないで早く帰ってきてね」 「そのつもりだよ」 平静を装うのが辛かったが、とにかく帰ってから洗いざらい話し、あの一件をどう対処すべきか、今夜ゆっくり妻と話し合おう、そう考えながら、午後の仕事を何とか乗り切った。 仕事が終わったのは、いつもより少し早い九時頃だった。 車をガレージに入れるまで、私の視線はずっと隣家を捉えていた。 この時の私には、かつて格式を感じさせたはずのあの日本家屋が、怖気を震わんばかりの、不気味な廃墟の屋敷のように見えてきて仕方なかった。 家に入り、食事の支度をしている美津子に声をかけた。 「おかえりなさい。今夜はあなたの好きなゴルゴンゾーラのパスタよ。もうちょっと待っててね。すぐ出来るわ」 「ありがとう」 私は妻のそばを離れると、スーツの上着を脱いで、二階の書斎に上がった。 そして入るなり、部屋の電気を点けて、勢いよく窓を開けた。 夜の遅い時刻とはいえ、目を凝らさなくとも、間近にある隣家の中庭はよく見える。 そして、この時も・・・この時も、中庭に立ってこちらを見上げていた、痩せこけた若い女の陰湿な顔も、よく見えたのである。 「何なんだ・・・。あなたは一体何がしたいんだ?」 私は小声で一人呟くと、何とか気持ちを落ち着かせようと、外気を吸い込んで、大きく深呼吸をした。 女は、私の姿を確認するや、縁側に上がり、部屋にいる誰かに声を掛けたようだった。 私は、女の一挙手一投足に至るまで、その全てを見逃すまいと、瞬き一つせずその行動を見守った。と同時に、女の声を聞き取ろうと耳を澄ませた。あまりよく聞こえなかったが、かなり棘のある声音であることに間違いなかった。 すると、女の背後の部屋からのそっと白髪の男が現れた。 家の表札をじっと見ていた男、朝卵を投げつけた男だ。 あの痩せこけた女の父親なのか、それとも義父にあたるのかわからなかったが、白髪の男もやはり縁側に立って、私のほうをじっと見ていた。 男もそうだが、あの女を初めて見た時も、とても嫌な感じがしたのをよく憶えている。 それは、隣人が私たちに対して抱いている憎悪の念からくるものなのだろうか。見当違いも甚だしいと思った。 私は緩めかけていたネクタイを、オーク材の机の上に放り投げると、挑発的にも見える隣家の態度など、もはや意に介さないというように、一度も視線を逸らすことなく、彼らを見返した。 それが十秒間ほど続いた後だったろうか。彼らに、これまでの経緯を問い質してみたいという衝動に駆られた。 それをはっきりと、大声に出して、思いの丈をぶちまけてやりたい。 その思いが込み上げてきて口を開きかけた時、出掛かった私の声は、ぐっと飲み込まれて咽喉の奥に引っ込んでしまった。 なぜなら、女が突然、何かを指差したからだ。 それは女の目の前、彼女の頭の位置よりも、少し高い所にぶらさがっている何か。 女は何度も、これを見ろと言わんばかりに、指で突つくように、私に指し示していた。 そういえば、前に何度かここから見た時も、あれがぶら下がっていたような気もしたのだが、私にはあれが何なのか、落ち着きをなくしていたせいもあろうが、この時は見当もつかなかったのだ。 私は、わけがわからなくなり混乱した。 すると、女は、その三十センチ四方程の大きさの、かごのようなものを手にして縁側を下り、門に向かって歩き出した。 白髪の男は、女に二言三言何か大声で言い放った後、奥に引っ込んで行った。 その行動を訝しく思いながら眺めていると、階下の電話が鳴り出した。 隣人か? 嫌な予感がして階段を駆け下りた。 キッチンから出て来て電話に出ようとした美津子よりも早く、私が横から受話器を鷲掴みにしたので、驚いた彼女が思わず手を引っ込めてしまったほどだ。 しかし、相手は美津子の母親だった。 「お母さんだよ」と言って受話器を渡した。 「どうしたのあなた?」 「いや、なんでもない」 そして再び二階に上がりかけた時、玄関のベルが鳴った。 私は玄関へ駆けて行った。 ドアを開けると、そこにいたのは、やはり隣家の、痩せ細った女だった。 しかし、意外にもその女は、近くから見ると、ただの痩せぎすな女というだけで、いたって平凡な、二十代後半の、どこにでもいそうな典型的な主婦に見えた。 私が勝手に抱いていた虚像だったのだろうか・・・? そして女が手にしていたものを見た。それは鳥かごであった。 「長いこと、お宅が毎日のようにこちらを覗いていたのは、これが目的だったんですか?」 「どういうことです?」 私は突然のことに呆気にとられた。何度か書斎の窓からお宅らと目が合っただけではないか。 「そちらこそ、こっちを見ていたではないですか」 すると、女は私を嘲笑うかのような調子で言い放った。 「ああ。あなた勘違いなさってますね」蔑みの感情を隠そうともせずに女は続けた。 「奥様です。ところで、奥様はいらっしゃいますか?お宅がこちらに来た時から、朝から夕方まで、何度も何度も二階からこちらを覗いてらっしゃって。それがもうこれだけ続くと、気持ち悪いったらないんですけど」 「妻が?そんな馬鹿な」 「今にして思えば、家が留守になるのは何時頃か、どこから入れるのかって、じっと観察してたんじゃないんですか?見て下さい。昨日の夜、帰ってみたらインコが二匹いなくなっています。奥様が何かご存知ではないかと思いまして」 私は激昂しそうになるのを必死に堪えていた。 「言い掛かりも甚だしいです。どうして妻を疑うんです?妻が何をしたっていうんですか?」 「そうですか。じゃあお伺いしますが・・・」女はポケットから、イニシャル入りの、淡いピンク色のハンカチを取り出した。それは間違いなく妻の物だった。「これ縁側にあったんですけど。奥様のではないかと思いまして」 そこで何か言い返そうとした時、私はふと思い出したのだ。名古屋の隣人だったあの未亡人も、何と言って訴えてきたか・・・。 私は間髪入れずに言った「洗濯物がお宅に飛んで行ってしまったことはお詫びします」そしてハンカチをひったくった「妻は留守です。もう帰って下さい」 「そうですか」女は吐き捨てるように言った「そのうち化けの皮剥がしてやりますよ。奥様は何て図太い方なんでしょうね」 女はいなくなった。 私はゆっくりとドアを閉め、階段に向かった。その横では妻が母親と電話で話している。私はそれをじっと聞いていた。 途中私の存在に気付いた美津子が声を掛けた。 「どうしたの?今の誰だったの?」 私は、新聞の勧誘だったと言った。 そして階段をゆっくり上がりながら、美津子と母親の会話をじっと聞いていた。 次の日。朝七時頃、いつものように車に乗って家を出た。 しかし、この日はいつもと違うコースを辿った。 自宅から僅か一キロ以内の場所に車を停め、しばらくシートを倒してラジオを聴いていた。 九時を過ぎる頃、会社に電話を入れ、しばらく休む旨を伝えた。その後、再び車で自宅の方角に向かい、その途中に位置する駅を通り過ぎて、最寄の有料駐車場に車を停め、駅の出入口が見える喫茶店に入ってコーヒーを注文した。 十時三十分を回った頃に妻が現れた。昨日、電話での母親とのやりとりを聞いていたので、間違いはなかった。 私は急いで喫茶店を後にすると、妻の後を追った。 下り線の二つ目の駅で、彼女の母親が待っていた。 親子は合流すると、その足で大型のペットショップに行き、九官鳥とトカゲを購入した。 トカゲは母親が持ち帰った。 美津子はそのまま自宅に戻った。私はその一切の動向を観察していた。 一日中、適当な場所で時間を潰して過ごしていた私は、その日の夜自宅に戻ると、妻の労いの言葉も耳に入らないまま、二階の書斎に篭った。 とにかく疲れていた。何もしたくないという虚脱感で体がだるく、頭痛もしていた。 ノックの音が聞こえ、美津子が入ってきた。 「相当お疲れのようね。大丈夫?もう食事の用意出来てるわ。今日は久しぶりに出前を頼んじゃったの」 美津子が私の肩に手を乗せて、軽く揉み解す仕草をした。私はいつもと変わらぬ風を装い、妻の手に優しく触れ、じゃあいただこうと言った。 先に妻が降りて行き、それから十分程した後、私も部屋を出た。 しかし、階段の途中、美津子の声が聞こえてきたので、私は足音を立てず、ゆっくりと階段を下りて行った。 すると、美津子は、ひそひそ声で、母親と電話をしていた。 「今日のは生きたままでは無理だったの・・・うん、味は良かったけど舌触りが。お母さんのほうはどうだった?」 私はその言葉を耳にしてしばらく無言で突っ立っていた。そして何の躊躇もなく玄関口に向かい、美津子の話し声を背中越しに聞きながら、ゆっくりと家を出た。 ドアを閉める寸前、背後を振り返った。 いつの間にか美津子は電話機を子機に持ち替え、母親と話をしながら、玄関の見える位置にまでやって来ていた。 ドアが閉まる寸前の美津子の顔は、眉間に皺を寄せ、キッと私を睨みつけるような、いまだかつて見たこともない、恐ろしい形相だった。美津子は気付いていたのだろうか。それはわからないが、私が何処へ行くのか尋ねようともしなかったことから、想像できよう。 彼女は先夫の失踪を悲しんでいたわけではなかったのだろう。 私のように、彼もまた、彼女の家系に隠された真実を知って逃げ出したに違いない。 そして実際、隣人の恐怖に怯えていたのは私のほうではなく、あの一家だったのだ。 あれからもう三年になるが、美津子とは一度も会っていない。 戻る HOME |